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列強のアジア進出

列強のアジア進出. ( 19 世紀半ば頃 、 山川出版社・日本史研究より ). アジアの植民地化.

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列強のアジア進出

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Presentation Transcript


  1. 列強のアジア進出 (19世紀半ば頃、山川出版社・日本史研究より)

  2. アジアの植民地化 19世紀になると欧米各国のアジア 進出は激しさを増し、 1840年イギリスはアヘンの持込を 禁止した清国(中国)に対してアヘ ン戦争をおこし、清国を屈服させ18 42年には南京条約を結んで清国を 開国させ香港を手にした。 続いてフランス、アメリカも清国 に迫って同じような条約を結び、1860年には太平天国の乱に乗じた イギリス・フランスの連合軍が清国 を攻め北京条約によりイギリスは 九竜を割譲させたが、この時ロシ アは沿海地方を手に入れた。インド、インドシナの諸国もヨーロ ッパ諸国の武力の前に屈して植民地化されていった。

  3. 鎖国体制下の日露関係 1701年頃:日本人漂流民の伝兵衛らと出会う       →日本の存在を知る1705年:サンクトペテルブルクに日本語学習所を     設置。1739年:仙台湾や安房国沖に接近、江戸幕府は沿     岸防備を強化、接触に失敗(→元文の黒船)    →日本も、北方に「おろしや」という国があ    ることを知るようになる。1764年:日本航海学校を設置1768年:日本語学校を設置 1771年:ベニョフスキー事件(はんべんごろう事件)    カムチャツカに流刑されたベニョフスキーが    ロシアの南進策を強調した書簡を長崎オラン    ダ商館に送った。 日本付近への航海を積極的に行うようになる。

  4. 1778年:ロシア船は蝦夷地を訪れ直に通商を求めた。    翌年に松前藩はそれを拒否した。    仙台藩の藩医工藤平助はロシア研究書『赤    蝦夷風説考』を著述。当時政治改革を主導    していた老中田沼意次も北方に関心を抱き、     蝦夷地調査などを開始したが、まもなく田    沼は失脚した。1783年:日本の船頭2.大黒屋光太夫が航海の途上に     漂流してアリューシャン列島に漂着。一行      はロシア人によって保護され、1791年には     女帝エカテリーナ2世と謁見した。光太夫は      帰国を望んでいた。1792年:ロシア使節アダム・1.ラクスマンに伴われ根室に着いた。ロシアは漂着民を届け、通    商交渉を狙ったが、再度断られ、老中松平    定信は周辺を巡視させた。 

  5. 1799年:幕府が蝦夷地の直轄統治を開始。最上徳内    や3.近藤重蔵に蝦夷地探検を行わせた。1799年:幕府が蝦夷地の直轄統治を開始。最上徳内    や3.近藤重蔵に蝦夷地探検を行わせた。 1804年:ニコライ・5.レザノフが日本人漂流者を伴い、長崎に来航。幕府はロシアの開港要求を拒    絶、レザノフは武力による通商開始を決意    蝦夷地の日本側拠点の攻撃、樺太と択捉島を    襲撃したが、彼の病死により中断された。1811年:千島列島を探検中に国後島に上陸したヴァー    シリー・ゴローニンが幕府の役人に捕縛。    その報復にロシアは日本の商人である7.高田     屋嘉兵衛が拉致される事件が起こった    (ゴローニン事件)。 正式の国交をもたないままの緊張をはらんだ交渉は1821年までに落ち着きを取り戻し、蝦夷地は再び松前藩に返還される。

  6. レザノフの上陸(レザノフ来航絵巻)レザノフが肥前・福岡両藩の警固をうけ,奉行所へ出頭する様子を描いたもの。レザノフは長崎退去の途中(1805),部下に択捉島・樺太南部などを攻撃させた(1806~07)。縦40.8cmレザノフの上陸(レザノフ来航絵巻)レザノフが肥前・福岡両藩の警固をうけ,奉行所へ出頭する様子を描いたもの。レザノフは長崎退去の途中(1805),部下に択捉島・樺太南部などを攻撃させた(1806~07)。縦40.8cm

  7. フランス革命戦争がアジアまで  当時の西欧の社会情勢は大きく変わっていた。 1793年にオランダはフランスに占領され、オランダ統領のウィレム5世はイギリスに亡命した。オランダはイギリスと戦争状態にあるフランスのナポレオンの勢力下に入り、海外のオランダ領植民地はイギリスの勢力下に入った。バタビアの東インド会社も例外ではなかった。  その東南アジアの植民地 はイギリスに占領されて いた。世界の中で、オラ ンダの国旗が掲げられて いたのは、長崎港の出島 だけであったのである。

  8. 9.フェートン号事件 1808(文化5)年10月、イギリス軍艦フェートン号がオランダ国旗を偽装して、突然長崎港に入港した。当時の商館長ドウフと長崎奉行・松平図書頭康平は偽りのオランダ船と気づかず、商館員2名とオランダ通詞らが出迎えに向かうと、武装ボートによって拿捕され、船に連行された。それと同時に船はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めてボートで長崎港内の捜索を行い、人質の1人ホウゼンルマンを派遣して薪水や食料(米・野菜・肉)の提供を要求 。長崎奉行は直ちに商館員を救出しようとし、湾内警備を担当する鍋島藩・福岡藩の両藩にフェートンの焼き討ち、もしくは抑留を命じ、大村藩などにも派兵を促した。

  9.  オランダ商館長(カピタン)ヘンドリック・ズーフは長崎奉行所内に避難し、長崎奉行に戦闘回避を勧めた。一方、長崎警衛当番の鍋島藩が太平に慣れて守備兵をわずか150名程度に減らしていたことが判明。フェートン号側は薪水や食料の補給に応じなければ、長崎港内に停泊する和船や唐船を焼き払うと脅した。長崎奉行は激怒したが、襲撃兵力のない長崎奉行はやむなく要求を入れ、食料や飲料水を供給し、オランダ商館も豚と牛を送った。このためイギリス船は残りのオランダ人も釈放し、翌17日に港外に去った。長崎奉行松平康英は、国威を辱めたとして自ら切腹し、勝手に兵力を減らしていた鍋島藩家老等数人も責任を取って切腹した。さらに江戸幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして、11月には藩主鍋島斉直に100日の閉門を命じた。

  10. 開国を勧告する内容の国書ウィレム2世 (オランダ王)  フランスの侵攻で一家と共にイギリスへ亡命した。故国の解放後、1815年にはワーテルローの戦いにオランダ軍司令官として参戦し、負傷。オランダが新たに王国となり、父ウィレム1世が国王に即位すると、オラニエ公(彼以降は王太子の称号)となった。 日本に対しては、アヘン戦争後の1844年、開国を勧告する内容の国書を将軍徳川家慶に送るが翌年に幕府から拒否された。

  11. 列強の接近 1824年 宝島事件<薩摩藩>英捕鯨船員が宝島に上陸,牛を奪う。 大津浜事件と共に異国船打払令発令の契機となる。 1824年 大津浜事件〈水戸藩〉英捕鯨船員が大津浜に上陸し薪水・食料を要求。水戸藩逮捕。幕府は翌25年,異国船打払令を発令し,水戸藩士会沢安(正志斎)は『新論』を著した。 1837年 11.モリソン号事件(米)広州のアメリカ貿易商社は,マカオに保護されていた日本人漂流民の岩吉・音吉(尾張)ら7人の送還と貿易交渉のため,モリソン号を日本に派遣。武装をせず浦賀に到着したが砲撃を受け退去。鳥羽港は風浪高く入港を断念し,薩摩の山川に停泊。再び砲撃を受け,マカオに

  12. 引き返した。この事件で,12.渡辺華山は「慎機論」高野長英は「13.戊戌夢物語」を著して鎖国政策を批判。1839年蛮社の獄となった。 引き返した。この事件で,12.渡辺華山は「慎機論」高野長英は「13.戊戌夢物語」を著して鎖国政策を批判。1839年蛮社の獄となった。  1846年 ビッドル来航(米) 海軍提督で,浦賀沖に来航し,通商を要求。幕府は拒否 1853年 プチャーチン来航(露)長崎に来航。54年下田にて日露和親条約調印。58年,江戸で日露修好通商条約に調印(クリミア戦争<1853~56>のため一時退去) 1854年ディアナ号の遭難 11月の安政東海地震による大津波で,下田に停泊中のプチャーチン乗艦のデイアナ号が大破。伊豆の戸田港へ回航中に沈没した。戸田港内で日本人船大工により国産初の洋式帆船「ヘダ号」が建造された。日露和親条約調印後の55年3月,プチャーチンはこの船で帰国の途についた。

  13. 高野長英 江戸で杉田玄白に蘭法医術を学び、その後、長崎に留学してシーボルトの鳴滝塾で医学・蘭学を学び、その抜きん出た学力から塾頭となっている。文政11年(1828)、シーボルト事件が起きたが、巧みに逃れ、天保元年(1830)江戸に戻り、三河田原藩重役渡辺崋山と知り合い、その能力を買われて田原藩のお雇い蘭学者となる。天保8年(1837)、異国船打払令により米船籍の商船モリソン号が打ち払われ、モリソン号事件が起きた。この際長英は「無茶なことだ、やめておけ」と述べており、崋山らとともに幕府の対応を批判している。 高野長英像 渡辺崋山の弟子、椿椿山により天保前半頃描かれる。重要文化財

  14. 長英はそうした意見をまとめた『戊戌夢物語』を著し、内輪で回覧に供した(ただし、長英の想像を超えてこの本は多くの学者の間で出回っている)。天保10年(1839)、蛮社の獄が勃発。長英も幕政批判のかどで捕らえられ、永牢の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監。牢内では服役者の医療に努め、また劣悪な牢内環境の改善なども訴えた。これらの行動と親分肌の気性から牢名主として祭り上げられるようになった。弘化元年(1844)牢屋敷の火災に乗じて脱獄。江戸では人相書きが出回っていたため、薬品で顔を変えて逃亡生活を送り、鈴木春山に匿われて兵学書の翻訳を行うも春山が急死。その後、鳴滝塾時代の同門の案内で伊予宇和島藩主伊達宗城に庇護され、宗城の下で兵法書など蘭学書の翻訳や、宇和島藩の兵備の洋式化に従事した。彼が築いた久良砲台(愛南町久良)は当時としては最高の技術を結集したものとされる。嘉永3年(1850)江戸の青山百人町に潜伏していたところを町奉行所に捕縛され、護送する最中に絶命したとも、奮戦した後、喉を突いて自害したともある

  15. 高田屋嘉兵衛とゴローニン事件 淡路島の農民の子として生まれ、漁業に従事、18歳で廻船業者を志し、寛政7年(1795)には、兵庫の北風家の助けで、庄内で1700石積の辰悦丸を建造し本格的に廻船業、蝦夷地経営へ乗り出す。近藤重蔵や間宮林蔵、最上徳内などの幕府役人と接触し、国後航路の発見・択捉島開拓の功により、33歳の嘉兵衛は幕府から「蝦夷地常雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許された。文化9年(1812)幕府によるロシア船ディアナ号艦長ヴァーシリー・ゴローニン幽囚の報復として、嘉兵衛は国後島で副艦長のリコルドにより捕えられた(ゴローニン事件)。ディアナ号でカムチャツカ半島ペトロパブロフスク・カムチャツキーへ連行されるが、翌年帰国。

  16. ゴローニン事件 ニコライ・レザノフは日本人漂流民の津太夫一向を返還・通商を求め、1804年(文化元)9月に長崎へ来航。その後半年以上半軟禁状態に置かれた後、翌1805年(文化2)3月に長崎奉行所で交渉、通商を拒絶される。レザノフは漂流民を返還して長崎を去るが、1807年(文化4)、フォボストフらロシア軍人2名を雇い択捉島や樺太に上陸し、略奪や放火など襲撃を行わせる。幕府は東北諸藩に臨戦態勢を整え、蝦夷地沿岸の警備を強化、北方探査も行う。ロシアではフォボストフらを処罰するが、日本の報復を恐れて日露関係は緊張した。1808年(文化5)には長崎でフェートン号事件も起きており、日本の対外姿勢は硬化。1811年(文化8)、松前藩は測量のため千島列島へ訪れていたディアナ号を国後島で拿捕し、艦長ゴローニン海軍中佐ら8名を捕らえ抑留した。ゴローニンらを人質に取り、ディアナ号に対し砲撃する日本側に対し、副艦長のリコルドはロシアへ帰還し、日本人漂流民を使者、交換材料として連れて翌1812年(文化9)に再び来日、8月には国後島においてゴローニンと日本人漂流民の交換を求めるが、日本側はゴローニンらを処刑したと偽り拒絶する。 リコルドは報復措置として国後島沖で日本船の観世丸を拿捕。乗り合わせていた廻船商人の高田屋嘉兵衛らを抑留した。翌1813年(文化10年)9月、ゴローニンは高田屋嘉兵衛と捕虜交換により解放され、ロシアへ帰国した。この一連の事件解決には高田屋嘉兵衛の交渉があったといわれている。

  17. 1853年 ペリー来航(米)東インド艦隊司令長官ペリーは,旗艦サスケハナ号以下4隻で浦賀に来航し,米大統領フィルモアの国書を提出し開国を強くせまった。翌年、軍艦7隻を率いて再来し,日米和親条約(神奈川条約)の締結に成功。『日本遠征記』を著す1853年 ペリー来航(米)東インド艦隊司令長官ペリーは,旗艦サスケハナ号以下4隻で浦賀に来航し,米大統領フィルモアの国書を提出し開国を強くせまった。翌年、軍艦7隻を率いて再来し,日米和親条約(神奈川条約)の締結に成功。『日本遠征記』を著す 1856年 ハリス着任(米)初代駐日総領事として,下田に着任。アロー戦争の結果,58年に英仏が清と天津条約を結んだことを利用して,同年,日米修好通商条約の調印に成功した(大老井伊直弼) 1861年 露艦対馬占拠事件(露)ロシア軍艦が軍事基地建設を目的に対馬を占拠。イギリスの圧力により, 約半年後に退去

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