150 likes | 415 Views
1. 1. 武断 政治= 家康~ 3 代将軍家光 →徳川幕府の基盤を固める ← 武家諸法度 の法令 に違反する大名は親藩、譜代、外様の区別なく、 容赦なく改易、減封の処置を行った為、失業し た牢人が発生し、治安が悪化し戦乱を待望した。2.徳川家光の没後= 慶安の変 ( 1651 年) 後継の徳川家綱が幼弱で、 2. 由井正雪 は丸橋忠 弥等と共謀し、徳川家綱を奪取し、幕政批判と 牢人救済を掲げる反乱を企てた。 3.幕閣は武断政治からの方針転換を迫られること となった。. 文治政治への転換 (4代将軍家綱の政治).
E N D
1.1.武断政治=家康~3代将軍家光→徳川幕府の基盤を固める←武家諸法度の法令 に違反する大名は親藩、譜代、外様の区別なく、 容赦なく改易、減封の処置を行った為、失業し た牢人が発生し、治安が悪化し戦乱を待望した。2.徳川家光の没後=慶安の変(1651年) 後継の徳川家綱が幼弱で、2.由井正雪は丸橋忠1.1.武断政治=家康~3代将軍家光→徳川幕府の基盤を固める←武家諸法度の法令 に違反する大名は親藩、譜代、外様の区別なく、 容赦なく改易、減封の処置を行った為、失業し た牢人が発生し、治安が悪化し戦乱を待望した。2.徳川家光の没後=慶安の変(1651年) 後継の徳川家綱が幼弱で、2.由井正雪は丸橋忠 弥等と共謀し、徳川家綱を奪取し、幕政批判と 牢人救済を掲げる反乱を企てた。 3.幕閣は武断政治からの方針転換を迫られること となった。 文治政治への転換(4代将軍家綱の政治)
武断政治→幕藩体制の確立1.大名の大量改易 → 大量の牢人が出現(幕初50年間で約40万人)2.朝廷への圧迫→例:紫衣事件(1627)3.百姓への干渉→例:慶安の触書(1649)4.キリスト教の禁教、弾圧→例:島原の乱の弾圧5.鎖国政策(鎖国の完成は1639)武断政治から文治政治への転換1.3.保科正之(1611~72)…圧政から儒教的徳治主義武断政治→幕藩体制の確立1.大名の大量改易 → 大量の牢人が出現(幕初50年間で約40万人)2.朝廷への圧迫→例:紫衣事件(1627)3.百姓への干渉→例:慶安の触書(1649)4.キリスト教の禁教、弾圧→例:島原の乱の弾圧5.鎖国政策(鎖国の完成は1639)武断政治から文治政治への転換1.3.保科正之(1611~72)…圧政から儒教的徳治主義 へ。将軍家綱の補佐1)牢人問題対策(由井正雪の乱後) →牢人の増加 防止と取り締まり2)大名の改易を緩和=大名・旗本の末期養子の 禁止を緩和→末期養子(急養子)の容認(50歳位以下 17歳以上の)
(1663) 3)戦国時代の遺風を払拭→武家諸法度改正(寛文令) (a)寛文の二大美事=①殉死の禁止②人質の禁止 4)寛文印知=全ての大名に領知宛行状を発給(1664)5)天領の一斉検地→幕府財政収入の安定を図る 農村では農地の分割相続により本百姓の零落が始ま り、財源を米に依存する幕府や各藩は本百姓を維 持する為、分地制限令を発布1673年(延宝1)。名 主は20石以上、一般農民は10石以上の所持高でな ければ、田畑を子供に分地することを禁じた。藩政の安定と発展1)藩政の発展の契機(a) 軍役の負担軽減→安定した平和な時代の継続(b) 寛永の大飢饉(1642)への対応2)藩政の発展←善政を行う名君の藩主が輩出(a) 領内の支配機構の整備
(b) 農業生産の向上⇔新田開発、治水工事←寛永の大 飢饉を背景→新田開発が進展、領内の経済も発展。(c) 諸藩主の文教奨励策 ①保科正之(1611~72)=会津藩主 ・4.山崎闇斎(朱子学者)の招聘 ・藩学稽古堂を設立(1664) ②池田光政(1609~82)=岡山藩主 ・5.熊沢蕃山(陽明学派)を登用 ・藩学花畠教場を設立(1641)一般には最古の藩校 ・郷学閑谷学校を設立(1668)藩士の子弟のほか、百姓の子弟の入学も許可 保科正之 池田光政
③徳川光圀(1628~1700) 水戸藩主、黄門(中納言の唐名) ・朱舜水(朱子学者、明より亡命) を招く ・江戸藩邸に彰考館を開設「大日本史」(397巻)の編纂)④前田綱紀(1643~1724)=加賀藩主 ・6.木下順庵(朱子学者)の招聘 ・稲生若水(本草学者)の援助 →若水は 「庶物類纂」を編集 徳川光圀 朱舜水 木下順庵
元禄時代(5代将軍綱吉の政治)1.「元禄時代」元禄年間(1688~1703)≒5代綱吉の治世(1680~1709)(a) 幕政の安定(b) 経済の発展=「元禄バブル」か? ・大商人の台頭・都市文化の開花 2.綱吉の政治(就任期間:1680~1709)綱吉はもと館林藩主、最初は「天和の治」=綱吉 擁立の功績=堀田正俊→従来の老中の集団指導体制 →勝手掛老中制度の創設→堀田正俊→若年寄稲葉正休に殺される→側用人制度の創設(特に柳沢吉保を中心)→有能な人間を登用する手段→財政での機構整備=「勘定吟味役」を創設→綱吉の代官粛正→勘定奉行として辣腕を振るう荻原重秀が就任
3.将軍権威の強化(a) 大名の改易・減封=親藩・譜代≠外様は外す 没収された石高は、総計で161万石→幕府直轄領(b) 柳沢吉保を側用人へ登用→老中などを遠ざける権勢を振るう(c) 朝廷と関係改善→ 朝廷儀式の復活、禁裏御料 の加増(7.3万石へ) 将軍親政・独裁 綱吉の後継に甲府藩主徳川家宣が決まると、家宣の後任として甲府藩15万石の藩主となる。側室に名門公卿の正親町公通の妹を迎えていた関係から朝廷にも影響力を持ち、元禄15年(1702)に将軍綱吉の生母桂昌院が朝廷から従一位を与えられたのも、吉保が関白近衛基煕など朝廷重臣達へ根回しをしておいたおかげであった。宝永2年(1705)、家門に列する。宝永3年(1706)には大老格に上り詰めた
4.学問の奨励←綱吉=学問(儒学)好きな将軍(a) 湯島聖堂(孔子をまつる)の建設、8.林信篤を大学頭 に任命(1690)・林羅山(道春)の建てた上野忍岡の私塾を湯島に移し、湯島聖堂 (孔子の廟)・聖堂学問所を建設 →昌平坂学問所(幕府直轄の学問所「昌平黌」)の基・林信篤(鳳岡、羅山の孫)を大学頭に任命→以後、大 学頭は林家が世襲。朱子学が正式に幕府の官学に。(b) 歌学方の設置、北村季吟の登用(1689)著「源氏物語湖月抄」松尾芭蕉、山口素堂等優れた門人を輩 出。(c) 天文方の設置、9.安井算哲(渋川春海)の登用(1684).1689年に本所に天文台の建設。
5.財政難による貨幣改鋳←勘定吟味役(のち勘定奉行)荻原重秀の献策=幕府の赤字を改鋳で補う(家綱の代から)歳出の増大と収入の減少 (歳出は収入の2倍以上)・幕府収入の減少 =金銀の採掘量の減少(枯渇)+貿易収入の減少・綱吉の放漫財政と歳出の増大=生類憐みの令・儀礼の整備(京風の儀礼採用)・明暦の大火(1657)後の復興・生活の奢侈化・寛永寺・増上寺の改築、護国寺・護持院の造営、東大寺の再建など(母・桂昌院の帰依) ←根本的原因=貢租(年貢)収入は横這い、商品経 済の拡大に伴う出費の増大・元禄金銀の発行(1695)=金の含有率:慶長小判(86.3%) →元禄小判(56.4%)約500万両の利益 (当時の幕府の1年間の歳出約170万両)
綱吉ハイライト 1.元禄文化の開花←経済発展「元禄バブル」 と町人の台頭=元禄豪商の出現 →淀屋辰五郎、紀伊国屋文左衛門など →都市文化の開花 2.生類憐みの令(1685~) → 「犬公方」の悪評 =狂信的な動物愛護政策→犬に戸籍、捨て犬には 中野村に犬小屋を→生類を殺傷した者は処罰3.赤穂事件(1701~1702)江戸城中で赤穂藩主浅野(内 匠頭)長矩が吉良(上野介)義央を刃傷、長矩は切腹、 翌年浅野家の遺臣(大石内蔵助ら)が吉良を討つ 4.富士山の大噴火(1707)=駿河・相模などに大被害 幕府、被災地復興の為、全国に「諸国高役(国役)金」 石高100石宛て2両の割合で徴収、約49万両上納。
正徳の治(新井白石・間部詮房の政治) 「正徳の治」 ≒正徳年間(1711~16) =新井白石(1709~16)+間部詮房の政治=6代家宣(1709~12)・7代家継(1712~16)の治世1.綱吉政治への反発→文治政治の頂点 ①貨幣改鋳(旧に復す)、②生類憐みの令廃止、 ③朝鮮通信使の待遇簡素化 2. 侍講新井白石(1709~16)・側用人間部詮房の政治 ①儀礼の整備→儀式、服制、官位の整備②1.閑院宮家の創設(1710)→朝幕の関係の円滑化 東山天皇の第8親王秀宮に新宮家を創設させる世襲親王家は3→4家に増加③朝鮮使待遇の簡素化→接客の格と内容の低下・将軍の呼称を「日本国大君」から「日本国王」に復す(白石は大君とは朝鮮では臣下の職号と指摘)。
経済政策勘定奉行荻原重の罷免(1712)←改鋳で26万両着服の嫌疑1)貨幣改鋳(改良)の実施(正徳小判は慶長小判と同質) ①貨幣流通量の減少(=デフレ政策)→物価の引下げ→不況へ ②新旧金銀の交換比率に無理→経済界が混乱2)2.海舶互市新例(長崎新令、正徳新令)(1715)①国内の銀、銅の流出防止=貿易の支払いで銀・ 銅の海外流出防止(白石の計算:幕府創設以来、金の1/4、銀の3/4が海外へ流出したと推定) ②貿易額の制限→清船:30隻・銀6000貫目、オラ ンダ船:2隻・銀3000貫目 ③支払いを銅で行う経済政策勘定奉行荻原重の罷免(1712)←改鋳で26万両着服の嫌疑1)貨幣改鋳(改良)の実施(正徳小判は慶長小判と同質) ①貨幣流通量の減少(=デフレ政策)→物価の引下げ→不況へ ②新旧金銀の交換比率に無理→経済界が混乱2)2.海舶互市新例(長崎新令、正徳新令)(1715)①国内の銀、銅の流出防止=貿易の支払いで銀・ 銅の海外流出防止(白石の計算:幕府創設以来、金の1/4、銀の3/4が海外へ流出したと推定) ②貿易額の制限→清船:30隻・銀6000貫目、オラ ンダ船:2隻・銀3000貫目 ③支払いを銅で行う ④3.俵物(フカヒレ、いりこ、干し鮑)の輸出奨励 正徳の治=儒学的理想主義→現実との乖離