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『 史記 』 の中の「扁鵲倉公列伝」. 日本内 経医学会研究 発表 桐 木 優 平成 22 年 1 月 10 日. 前回までのまとめ 『 史記 』 とは. 編纂者は太史公司馬遷 ただし 、遷の父司馬談から引き継いで完成させる 前 91 年頃完成 黄帝から武帝太初年間(前 104 年頃)までの歴史が著されている 紀伝体をはじめて採用 公平さが求められる史書でありながら分類や並び順から司馬遷の様々な意図 が 読み取れる 思想に偏りが少ないにもかかわらず漢王朝に対する敬意を確実に表現している. 前回までのまとめ 司馬遷とは. 前 145 年頃、竜門に生まれる
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『史記』の中の「扁鵲倉公列伝」 日本内経医学会研究発表 桐木 優 平成22年1月10日
前回までのまとめ『史記』とは • 編纂者は太史公司馬遷 • ただし、遷の父司馬談から引き継いで完成させる • 前91年頃完成 • 黄帝から武帝太初年間(前104年頃)までの歴史が著されている • 紀伝体をはじめて採用 • 公平さが求められる史書でありながら分類や並び順から司馬遷の様々な意図が読み取れる • 思想に偏りが少ないにもかかわらず漢王朝に対する敬意を確実に表現している
前回までのまとめ司馬遷とは • 前145年頃、竜門に生まれる • 父は中央政府の太史令である司馬談 • 董仲舒に師事 • 孔子を尊敬するようになるとともに形骸化してしまっている当時の儒(礼)に対する嫌悪感を抱く • 司馬談の急逝により『史記』編纂を引き継ぐ(前110年頃) • 司馬談は方士との権力争いに敗れ泰山での封禅の礼に列することすらかなわず無念のあまり憤死しており、司馬遷は死の床で談より『史記』編纂を受け継ぐとともに効験なく口ばかりの方士を嫌うようになる • 旧友李陵をただひとり庇ったことで武帝の怒りを買い宮刑に処される(前99年頃) • 司馬遷は女性にある種のコンプレックスを抱くようになったと思われる • 「任安に報ずるの書」に宮刑後の自らの心境と『史記』完成への決意を残す(前93年頃)
前回までのまとめ『史記』編纂の目的 『史記』を後世に伝承すること • 時代に不遇であった自分自身(の正しい人生)を書物の中の未来に託すこと(天道は是か非か) • 『史記』を著すことによって自分と同じように時代に不遇であった賢者の名が時間に埋没してしまわないようにすること(尊敬する孔子と同じことをしたい)
前回までのまとめ歴史書としての扁鵲倉公列伝前回までのまとめ歴史書としての扁鵲倉公列伝 • 時代に不遇であった賢者の名が時間に埋没しないようにする • 扁鵲伝 「秦太醫令李醯、自知伎不如扁鵲也、使人刺殺之」 • 倉公伝 「人上書言意、以刑罪」 • 太史公曰 「美好者、不祥之器、豈謂扁鵲等邪、若倉公者可謂近之矣」 • 脈診という伝承 • 扁鵲伝 「到今天下言脈者、由扁鵲也」 • 倉公伝 「治病人必先切其脈乃治之」 • 方士を信じてはいけない • 扁鵲伝「信巫不信醫、六不治也」
扁鵲倉公列伝とは • 列伝の四十五番目にある • 伝説的な医師である扁鵲と倉公の事跡が描かれている • 倉公伝にある医案25例は世界最古のカルテといわれている
医書としての扁鵲倉公列伝を考える • 司馬遷は医者ではなく歴史学者 • 医学の知識が豊富であったとは考えづらい • もともと何らかの資料があり、司馬遷の『史記』編纂意図と合致している部分を比較的忠実に転記した可能性が高い • 医書として扁鵲倉公列伝を読むときは、司馬遷の『史記』編纂意図と元の資料(医書?)を分けて考える必要がある
扁鵲伝 • 本名は秦越人 • 官舎の舎長のとき、賓客の長桑君から薬と秘伝の医書を受け取る • 薬を飲んだ扁鵲は五蔵の硬結が透視できるようになる • しかし、うわべでは脈を診ているふうにしていた • 斉、趙、邯鄲(婦人科)、洛陽(老人科)、咸陽(小児科)などでいわゆる遍歴医(というか民間医)として活躍 • 秦の太医令であった李醯(この人は遍歴医ではなく医官)に医の腕を疎んじられて殺されてしまう • 扁鵲の医者としてのエピソードが三つある • 「脈をいうものはみな扁鵲に由来している」とまとめている
扁鵲伝のエピソード その1昏睡状態の趙簡子が見た夢扁鵲伝のエピソード その1昏睡状態の趙簡子が見た夢 • 五日間昏睡状態が続いている趙簡子 • 扁鵲曰く「血脈は問題ない。昔秦の穆公は七日眠って起きたとき「帝のところに行っていて楽しかった(以下長いので省略)」と言ったのでそれを記録して『秦策』ができた」と解説 • 二日半経って簡子が目覚め言った「帝のところに行っていて楽しかった(以下長いので省略)」 • 扁鵲は田四萬畝を褒美に貰った
扁鵲伝のエピソード その2虢の太子を生き返らせる扁鵲伝のエピソード その2虢の太子を生き返らせる • 虢の太子が死んだ(ように見えた) • 病の兆候は大表にあらわれるのでわざわざ診察しなくても病気を診断できる • 扁鵲は太子に会ってもいないのに尸厥であると診断し、治療して生き返らせた • 扁鵲曰く「私は死人を生き返らせたのではなく当然に生きているものを起しただけである」
扁鵲伝のエピソード その3扁鵲を信じない斉の桓侯の死扁鵲伝のエピソード その3扁鵲を信じない斉の桓侯の死 • 桓侯に三度謁見した扁鵲は三回とも治療をすすめる • 桓侯は、扁鵲が病気でないものを治療して利を求めているのだと思って治療を断る • 四度目に謁見したとき扁鵲は一目見ただけで桓侯がすでに治らないほど悪化していることを見抜き、すぐに逃げ去る • その五日後に桓侯は体が痛み出し病死してしまう
扁鵲伝まとめ • 望診ばかりしていて、実はほとんど脈診をしていない • そもそも透視能力があるというのは脈診ではなく望診の凄さを物語っているはず • 扁鵲が脈診の祖であるということは「脈をいうものはみな扁鵲に由来する」という一文以外からは読み取ることができない • 「六不治」はエピソードにはあまり反映されていない • 「信巫不信醫、不治」とあるが、夢の内容をあてたり死人を生き返らせたり一瞥しただけで診断したりと「巫」の要素十分 • 脈診の伝承や巫に対する記載は物語り全体からみると極めて不自然な形になってしまっている
倉公伝 • 本名は淳于意 • はじめは独学で勉強していた • その後公孫光に師事 • 公孫光の勧めで公乗陽慶に師事 • 公孫光は陽慶に弟子入りを断られた • 陽慶は倉公が今まで学んだものをすべて棄てさせて新たに禁方を伝えた • 倉公はあるとき人に恨まれて訴えられ肉刑に当たるとされたが、五女緹縈の上書により赦される(助けた緹縈を含む五人姉妹は倉公に「女なんか役立たずだ」と罵られる) • 帝から倉公への九つの問答を掲載 • 一つ目の問答の答えとして二十五の医案をあげる
倉公伝の医案(二十五例) • 少なくとも20例で脈診を行いその解説までしている • 望診がはっきりと確認できるものは5例 • 尺膚診が1例(脈診・望診との併用) • ほとんどの症例で、房事・飲食・汗など生活習慣上の注意で対応できるものを病の原因としている • 他の医師が誤診していると思われるものが少なくとも8例あり、未熟な医学が病の原因であると断言までしたものも1例ある • 処方例は湯液12例(さらに過誤1例)、鍼2例(さらに過誤1例)、灸2例(さらに過誤1例) • 鍼は足心に刺して血が出ないように押さえていたものを除くとすべて陽経 • 灸は湯液と併用(過誤も含めて) • 治ったものは14例、亡くなったものは9例、まだ死んでないものが1例
倉公伝の問答 • 必ず脈を診た上で治療するとしている • 医学の伝承について師匠のことや弟子ことを話している • 医療過誤を戒めている • 医術の「学」の重要性を述べている • 飲食喜怒といった生活習慣上の養生の大切さを語っている • 自慢話が多い(それに対し帝はどうも倉公の医術や人間性を疑ってかかっている節がある)
倉公伝まとめ • 倉公伝は名実ともに脈診に重きを置いている • 生活習慣上の不注意を取り上げるなど呪術的な「巫」ではなくあきらかに「医学」である • 倉公自身独学・二流の環境・一流の環境とステップアップしながら医術を向上させており、医学の未熟が悪い結果を及ぼすことを記載するなど「学問」としての主張が強い • 倉公伝には医案はあるものの医者としてのエピソードが皆無に等しく扁鵲と違って神格化されていない
まとめ「脈診」と「巫医」から読む扁倉伝 • 扁鵲伝と倉公伝はもともと全くの別物 • 司馬遷が伝承アピールのため一文加えて一緒に置いた • 倉公の所属する団体が扁鵲の名をかたって扁鵲倉公列伝に近い物語を作っていた • 「巫医」の別がない扁鵲に比べて倉公時代には、それまでの呪術的「巫医」から脱皮し医術を勉強の上に成り立つ学問の位置に高めている • 倉公のように(寸口)脈を診断の柱とした医学集団があり、その資料をもとに扁鵲倉公列伝(的物語)が編纂されたのではないか
まとめ扁鵲倉公列伝 • 扁鵲が脈診の祖というのは後から都合よく書き換えた話 • 「黄帝」の名を冠した脈書も多いが、黄帝は土徳の瑞であり竜であり巫である。巫との決別を主張したい彼らにとっては黄帝でない扁鵲のほうが都合がよかったのかもしれない • とすると、『黄帝内経』が道教の流れであることは必然といえる • 素問霊枢に扁鵲(というか倉公)医学と思われるものも含まれていることからも「素問霊枢≠黄帝内経」がここからも推測される • また、民間医と医官(秦医)の対立が感じられることから、医官(黄帝医学)に対抗する民間医(扁鵲医学)の可能性もある • 司馬遷は基本的に官が嫌いなので自ら「扁鵲医学」の広告塔になった可能性もある。もしくは「黄帝医学」は方士に近い考えを持っていたとも考えられる • 最終的に扁鵲でもなく黄帝でもなく白氏でもなく融合した『素問』『霊枢』が伝えられているのは先人からのメッセージかもしれない