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3 ・猫食と異文化理解. 2012.05.09. 成蹊教養・文化人類学の考え方. 前回:異文化理解の問題. 自分たちとかなり・全く異なる文化と接した場合、 「わたしたちとは違うけれども、それをとやかくいうことはできない」「あれはあれでありだろう」は、果たして異文化理解のスタンスとして適当なのか? それは「わかったふり」をしているだけで、実はそれ以上の理解を拒絶・否定している可能性はないか? あるいは 、すべて受け入れて、自分たちも同じようにふるまえば理解したといえるのだろうか? 「自分たちの文化とは違う」という文化の差異に対して、どのようなスタンスで臨むのか?
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3・猫食と異文化理解 2012.05.09. 成蹊教養・文化人類学の考え方
3・猫食と異文化理解 前回:異文化理解の問題 • 自分たちとかなり・全く異なる文化と接した場合、 • 「わたしたちとは違うけれども、それをとやかくいうことはできない」「あれはあれでありだろう」は、果たして異文化理解のスタンスとして適当なのか? • それは「わかったふり」をしているだけで、実はそれ以上の理解を拒絶・否定している可能性はないか? • あるいは、すべて受け入れて、自分たちも同じようにふるまえば理解したといえるのだろうか? • 「自分たちの文化とは違う」という文化の差異に対して、どのようなスタンスで臨むのか? • 日本人だけでなく、世界のひとびとに共通する普遍的な考え方=自文化中心主義 ethno-centrism • 「異文化理解」においては自文化中心主義はとても厄介
3・猫食と異文化理解 異文化へのスタンス • 「自分たちの文化とは違う」という文化の差異に対して、どのようなスタンスで臨むのか? • とりあえず「自文化中心主義」には注意が必要であるが…… • 「ふーん、そうなんだ、ま、それもありじゃん?」……それは実はそれ以上の理解をやめてしまっている思考停止では? • 「わかりました、あなたのやりかたを100%受け入れ、実行します」……それは「自文化否定主義」みたいなもので、長くは続かないのでは? • 「よーし、食べてみたぞ、これでおれはお前のことがよくわかった!」……そんなに話は単純ではないだろう(じゃあ、ピザを食べたらイタリア人のことがわかるのか??) • 「わたしはわたし、あなたはあなた、お互いとやかく言われたくないでしょう? だから、黙ってて」……それを突き詰めると多様性過剰になって共同体は崩壊するのでは?
3・猫食と異文化理解 「文化の翻訳」という問題(1) • たとえば、日本人―鯨の関係と、中国人-ねこの関係を等値と見ること、はよく試みられる • それはショックを緩和する意味で、大切なはじめの一歩 • ただし、それは「翻訳」であって「理解」ではないのに、「理解した気になる」のが問題 • cf. むずかしい英語の(あるいは独語/仏語の)哲学書を、がんばって日本語に翻訳したとする • それはその哲学書の「内容」を理解したことになるか? というと、ならないはず • 鯨への置換は「文化の翻訳」にすぎない
3・猫食と異文化理解 「文化の翻訳」という問題(2) • 古池や 蛙飛び込む 水の音 と、Old pond---frogs jumped in---sound of water(ラフカディオ・ハーンの英訳) • 両者を、完全にイコールで結ぶことは、むり • だからといって、両者がまったく違う、ということでもない • 両者の相互理解について語るには、何万の言葉を費やさなければいけないだろう →文化の問題も同じでは?
3・猫食と異文化理解 異文化理解とはどういうことか?-中括 • 中国における猫食の背景 • まず、全員が食べるわけではもちろんない • 全ての中国国民に「ペット」という感覚が欠如しているわけでもない • 猫<虎(あるいは蛇<龍)という比喩的関係 • 同様の事例は、他にもないだろうか? • 韓国における犬食 • 日本におけるうなぎ食 • 猫食の背景を知っての「翻訳」と知らないでの「翻訳」は意味が違うし、当然「理解」にも差がでる • 異文化理解とは、そうした「文化の背景・理由・詳細について知る(知ろうとする)こと」である
語 内容A 内容B A B 3・猫食と異文化理解 「真の異文化理解」の不可能性(1) • ねこ食の話から異文化理解とは「その文化の背景/理由/過程について〈知る・知ろうとする〉」ことと述べた • 知るためには、コミュニケーションと言語が不可欠 • ところが、言語を媒介とするかぎりは、言語自体のもつ制約によって、100%信頼できるコミュニケーションは行ない得ない • ある語が指す内容について、話者Aと話者Bが想定する内容が一致しているかどうかを確認する手段はない
3・猫食と異文化理解 「真の異文化理解」の不可能性(2) • 100%信頼できるコミュニケーションが成立しない以上、対話に基づいて得られる理解には、常に誤解がどこかには生じている • では、どうせ誤解があるなら、面倒な思いをして対話しなくてもいいのか? • だれかがそうしたスタンスをとることを止めることはできない(文化相対主義の限界) • だからといって、みんながみんな対話をやめてよいとも思えない……どうせ100点とれないから試験勉強はしない? 30点よりは50点がましだから、ちょっとでもがんばる? • 「理解できる」のではなく「理解しようとすることができる」だけだが、「理解しようとする」のとそれを放棄するのとの間には、大きな差がある
3・猫食と異文化理解 なぜ異文化を理解しなければならないのか • そのひとつの理由は「理解の相互性・相対性」に基づいている • 理解(≒知ること)がコミュニケーションに基づくのだとすると、その回路を一方的に閉ざすことは適切ではない • もうひとつの理由は「知らなくてもいいが、知っていればよりよいことがあり得る」という点 • たとえば「方言」という文化を共有できるケースとできないケース、どちらがよりシンパシーを得られるだろうか? • 結局のところ、異文化理解は、他人への理解・他人とのコミュニケーションと似た次元にある
3・猫食と異文化理解 異文化理解-まとめ(1) • 異文化理解とは「まあそれもありだろう」と認めることではない • 異文化理解とは「やってみること」でもない • 異文化理解とは、その行為や考え方の背景を理解することである • だから、ある意味、だれにでもできる(猫好きであっても猫食は「理解」できる) • 逆に、やろうと思わなければ、できない(簡単に流すことはできない) • 異文化理解は(基本的には)ことばやコミュニケーションを媒介として成り立つ • だから、100%完全に理解することはできない(言語の限界) • 自分のことば・自分の文化は、役立つとも言えるし、邪魔になるとも言える(基準点としての自文化 vs自文化中心主義)
3・猫食と異文化理解 異文化理解-まとめ(2) • 異文化理解とは、つまるところ、全然知らない「異文化」に対して働きかける不断のプロセスである • 全然知らない0の状態から、実現不可能な理想の100の状態をめざして、0よりは10、10よりは30……の理解を続けていこうとするひとつの〈プロセス〉である • 「理解しよう」という動的 dynamic な〈プロセス〉であって、「理解した」という静的 static な〈状態〉ではない • 異文化理解は、個人としての他人の理解と似通ったものとしてとらえて、ほぼさしつかえない • 他人を理解することは必要か? 他人を理解することは可能か? という問いに対して、個々人がどういうスタンスをとるのか、という問題と、本質は同じである