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6[ 再 ] ・自文化中心主義と異文化理解. 2009.06.02. 青山 ・文化人類学. 自分を中心に考えてしまうこと. 「日本人の感覚からすると、ねこはペットであって、食べるものではない」→「ヘンな食文化だ」 土を食べる民族もいれば、カブトムシの幼虫をごちそうとする民族もいるし、豚の血液をおいしいとする民族もいる が、大事なのは、絶対的に・誰から見ても「変わっている」食物・食文化というのはない、ということ 「ヘンな食文化」という考え方の裏には 「自分たちはヘンじゃない」という前提 がある
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6[再]・自文化中心主義と異文化理解 2009.06.02.青山・文化人類学
6[再]・自文化中心主義と異文化理解 自分を中心に考えてしまうこと • 「日本人の感覚からすると、ねこはペットであって、食べるものではない」→「ヘンな食文化だ」 • 土を食べる民族もいれば、カブトムシの幼虫をごちそうとする民族もいるし、豚の血液をおいしいとする民族もいる • が、大事なのは、絶対的に・誰から見ても「変わっている」食物・食文化というのはない、ということ • 「ヘンな食文化」という考え方の裏には「自分たちはヘンじゃない」という前提がある • これは、日本人だけでなく、世界のひとびとに共通する普遍的な考え方=自文化中心主義 ethno-centrism • 「異文化理解」においては自文化中心主義はとても厄介
6[再]・自文化中心主義と異文化理解 異文化への視角 • 自分たちの基準に照らして、猫食を「ヘンだな」と思ってしまうこと、あるいは裸の人々の生活を「遅れているな」と思ってしまうことは、ある意味「自然」で「常識的」な反応 • ただ、文化人類学的には、そうした「常識」的な見方を再検討したい • だからといって、「実は自分たち{が/も}ヘンなのだ」「自分たちも別の意味で劣っているのだ」と単純に正誤や優劣をひっくり返すのでは、「正誤・優劣」という枠組み自体から抜け出せたわけではない点に注意
C B A 乏 豊 6[再]・自文化中心主義と異文化理解 上下関係を生み出すもの(1) • 文化について、上とか下とか(不本意ながらも)考えてしまうのは、単一の基準で(たとえばモノが豊かかそうでないか)相互を位置づけようとしてしまうから • ある1つの基準を設けて(モノの豊かさなど)世界を眺めると、それは必然的に「上下関係」「先後関係」になってしまう……1次元のみかたの特徴 • 「西洋に追いつき、追い越せ」「先進国と発展途上国」といったスローガンや枠組みは、1次元のもののみかたに拠っている
適合 C B A 不適合 乏 豊 6[再]・自文化中心主義と異文化理解 上下関係を生み出すもの(2) • もし基準を2つとれば、単純な上下関係ではなくなる • たとえば、ものの豊かさ+自然への適合の2つの基準をとろうとしてみると次のようになる
6[再]・自文化中心主義と異文化理解 複数の基準から眺めること • 2つ、3つと、さまざまな基準からみていけば、「上下」「優劣」とは異なる視点から、互いの文化をみつめることができる……2次元のみかたの特徴 • さまざまな基準からみていくには、ある文化を総体的・全体的にとらえようとする必要がある • 3つ基準をとれば3次元、10個とれば10次元と、どんどん視野は広がっていくだろうか?……答えは、否。 • 基準を増やしていってもそれだけでは、ちょうど同心円の中心にいる自分からの遠近でしか、他者をみることはできない
6[再]・自文化中心主義と異文化理解 自文化中心主義/文化相対主義(1) • 基準を増やしていってもそれだけでは、ちょうど同心円の中心にいる自分からの遠近でしか、他者をみることはできない • 評価の基準は、まず最初には自文化のそれになってしまう……自文化中心主義・自文化絶対主義 • 「3次元のみかた」のためには、自分を中心とする同心円(を含む平面)から離れて視点を移動してやり、別の角度・高さから、その平面を見直してやる必要がある……自文化の相対化・文化相対主義
6[再]・自文化中心主義と異文化理解 自文化中心主義/文化相対主義(2) • 自文化中心主義とは、自分の文化の基準で周囲をはかり、自分と異なる点について、ヘンだ・おかしい・間違っている・劣っている・遅れている、などと判断する立場 • それだけ聞くと、ずいぶんよくないスタンスのようだが、ひとは誰でも成長過程で「自分の文化」を形づくっている以上、完全にこの見方を排除することは極めて難しい • 文化相対主義とは、相手の文化も自文化同様しっかりとした「体系」を持っており、そのひとびとの間で共有・学習され、継承・ブラッシュアップされてきたものであるから、互いに尊重されあうべきものだ、と考える立場 • それだけ聞くと、とてもすばらしいスタンスだが、これを実現するためには、i. 相手の文化を(コミュニケーションを重ねた上で)きちんと認める、ii. 自文化を相対化・客観視(3次元的に眺める)する、iii. 全体の中での位置を(自他ともに)把握することが必要であり、なかなか簡単に成し遂げられるものでもない
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6[再]・自文化中心主義と異文化理解 なぜ異文化を理解しなければならないのか • そのひとつの理由は「理解の相互性・相対性」に基づいている • 理解(≒知ること)がコミュニケーションに基づくのだとすると、その回路を一方的に閉ざすことは適切ではない • もうひとつの理由は「知らなくてもいいが、知っていればよりよいことがあり得る」という点 • たとえば「方言」という文化を共有できるケースとできないケース、どちらがよりシンパシーを得られるだろうか? • 結局のところ、異文化理解は、他人への理解・他人とのコミュニケーションと似た次元にある • それは、もともと(原始人状況を想定すると)ほとんどすべての他者が「異文化」であったことと通底する
6[再]・自文化中心主義と異文化理解 異文化理解-まとめ(1) • 異文化理解とは「まあそれもありだろう」と認めることではない • 異文化理解とは「やってみること」でもない • 異文化理解とは、その行為や考え方の背景を理解することである • だから、ある意味、だれにでもできる(猫好きであっても猫食は「理解」できる) • 逆に、やろうと思わなければ、できない(簡単に流すことはできない) • 異文化理解は(基本的には)ことばやコミュニケーションを媒介として成り立つ • だから、100%完全に理解することはできない(言語の限界) • 自分のことば・自分の文化は、役立つとも言えるし、邪魔になるとも言える(基準点としての自文化 vs 自文化中心主義)
6[再]・自文化中心主義と異文化理解 異文化理解-まとめ(2) • 異文化理解とは、つまるところ、全然知らない「異文化」に対して働きかける不断のプロセスである • 全然知らない0の状態から、実現不可能な理想の100の状態をめざして、0よりは10、10よりは30……の理解を続けていこうとするひとつの〈プロセス〉である • 「理解しよう」という動的 dynamic な〈プロセス〉であって、「理解した」という静的 static な〈状態〉ではない • 異文化理解は、個人としての他人の理解と似通ったものとしてとらえて、ほぼさしつかえない • 他人を理解することは必要か? 他人を理解することは可能か? という問いに対して、個々人がどういうスタンスをとるのか、という問題と、本質は同じである