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再臨主の路程

再臨主の路程. (1968年~1992年). レベル1-2. 21年(蕩減)路程(1960~81). 順理. ×. 失われた世界基盤を蕩減復帰. 1981年. 1945年. ワシントン大会 (76.9.18) ヤンキー大会 ( 76.6.1) ヨイド大会(75.6.7). 世界的7年路程. 逆理. 1975年. マディソン大会 (74.9.18) 全米21都市・32都市講演(73,74年) 米国へ( 71年12月) 国際勝共連合創設. 国家的7年路程. 1968年. 神の日 . 世界巡回 聖地決定 万物の日          子女の日 父母の日.

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再臨主の路程

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  1. 再臨主の路程 (1968年~1992年) レベル1-2

  2. 21年(蕩減)路程(1960~81) 順理 × 失われた世界基盤を蕩減復帰 1981年 1945年 ワシントン大会(76.9.18)ヤンキー大会(76.6.1)ヨイド大会(75.6.7) 世界的7年路程 逆理 1975年 マディソン大会(74.9.18)全米21都市・32都市講演(73,74年)米国へ( 71年12月)国際勝共連合創設 国家的7年路程 1968年 神の日  世界巡回 聖地決定万物の日         子女の日父母の日 家庭的7年路程 統一教会 1960年 興南

  3. 第二次7年路程(国家的) 1960~67年 第一次7年路程(家庭 ・氏族的) この7年間は、最初の神を中心とした家庭である、文先生のご家庭(真の家庭)が、想像を絶する試練を受けた。さまざまな非難、中傷、誤解の中で文先生の願いは、韓夫人が試練に耐えて、乗り越えていくことであった。それゆえ、1968年1月1日「神の日」において、文先生は「この勝利したエバ(女性)を見て下さい」と涙の祈祷をささげられたのである。 このようにして真の家庭が確立され、祝福家庭が拡がり、神の氏族的基盤が築かれた。 1968~74年 第二次7年路程(国家的) 国際勝共連合創立アメリカ及び民主世界が共産主義に対抗できず、代わりにその使命を果たすため、文先生によって1968年設立された。それは単に反共を叫ぶだけではなく、共産主義思想の誤りを指摘し、真理を提示し、共産圏の人々を救っていくものである。1970年9月、日本武道館で53か国の代表250人、2万数千人が参加して世界反共大会(WACL)が行われた。

  4. 第二次7年路程(国家的) 国家段階の前に、メシヤ家庭と祝福家庭たちの一体化の基準が必須であった。それが、韓国における1970年から3年間の1200名祝福夫人の開拓伝道であった。文先生のみ言に涙で決意し、夫や子供を残して、開拓伝道の任地に出発した。この1200名の三年開拓伝道が内的条件となって、天は南侵を食い止めることができたのである。1970~72年は韓半島の危機一髪の時であった。金主席は「1972年の60歳の誕生日はソウルで祝う」と発表していた。そのような情勢の中での悲愴な決意で行われた開拓伝道であった。そして72年の冬は歴史的暖冬となった。ハンガン(漢江)が凍らず、軍隊の進路を遮ったのである。もし韓半島が共産化されていれば直ちに日本も共産化されていたであろう。 国家的段階における中心摂理が勝共運動であった。国際勝共連合は韓国の軍隊、警察など数十万の人々を勝共教育していった。韓国は反共国家であったが共産主義を倒す理論がなかった。それを勝共理論で教育することによって国家のために奉仕し、感服させるまで来ていた。しかし当時の朴大統領の下にいたクリスチャンたちが強固に反対したためにメシヤと国家が一つになる道は極めて困難となった。 このままでは「第二次7年路程」を勝利できないため、1971年12月アメリカに向かわれた。また、神が愛するキリスト教精神で建国されたアメリカを覚醒し復興させるためにも、渡米されたのである。

  5. 第二次7年路程(国家的) 米国はキリスト教が力を失い、建国の精神が消えうせ、個人主義、麻薬・フリーセックスなど病める大国となっていた。そこで文先生は世界の10か国から教会員を集め、1972年2月からリンカーン・センターでの講演を皮切りに、アメリカの7大都市などで講演をされた。また、1973年10月から、「危機に瀕するキリスト教と新しい希望」と題する三日連続の講演が21か都市で行われた。そして、神に帰る以外に、すべての問題の解決の道がないことを訴えられた。

  6. 第二次7年路程(国家的) 「許せ! 愛せ! 団結せよ!」1972年6月、民主党本部への盗聴事件が発覚し、ニクソン大統領に対する糾弾の声が高まった。その中で文先生は、1973年11月にウォーターゲート事件に関する声明文をニューヨークタイムズなどに発表された。「アメリカは『我ら神を信ず』という精神に帰らなければなりません。ただ批判を続けていけば、アメリカは大きな危機に陥ってしまいます。アメリカは、ウォーターゲート事件を契機にキリスト教の伝統である愛と許しの心によって団結し、神のみ旨に生きなければなりません。許せ、愛せ、団結せよ」と。 ニクソン大統領との会見1974年2月1日、文先生はホワイト・ハウスに招待され、ニクソン大統領と会談された。先生は「お祈りから始めましょう」と言われ、祈られた。そして「アメリカに与えられた神の祝福はアメリカ人のためだけの祝福ではありません。祝福には必ず責任が伴います。その責任とは、神の摂理の中で世界救援のために貢献することです。‥」と語られた。

  7. その後、文先生は2月から32か都市で「キリスト教の新しい未来」のテーマで3日連続の講演を続けていかれた。また5月には東京帝国ホテルで「希望の日」晩餐会を開催し、福田赳夫大蔵大臣をはじめ1700名を招いて、「為に生きる」のみ言を語られた。福田大臣はスピーチで「アジアに偉大な指導者現る。その名は文鮮明である」との名言を残した。この時期、ニクソン大統領を中心とするアメリカと日本と韓国が神の摂理(メシヤ)と一体化していったならば、地上天国の道が開かれるはずだった。ところが8月8日、ニクソン大統領が家族の意向で突然辞任してしまったために、天の計画は破綻し、インドシナ半島やアフリカでは次々に共産化が進んで多くの人命が犠牲になってしまったのである。その後、文先生は2月から32か都市で「キリスト教の新しい未来」のテーマで3日連続の講演を続けていかれた。また5月には東京帝国ホテルで「希望の日」晩餐会を開催し、福田赳夫大蔵大臣をはじめ1700名を招いて、「為に生きる」のみ言を語られた。福田大臣はスピーチで「アジアに偉大な指導者現る。その名は文鮮明である」との名言を残した。この時期、ニクソン大統領を中心とするアメリカと日本と韓国が神の摂理(メシヤ)と一体化していったならば、地上天国の道が開かれるはずだった。ところが8月8日、ニクソン大統領が家族の意向で突然辞任してしまったために、天の計画は破綻し、インドシナ半島やアフリカでは次々に共産化が進んで多くの人命が犠牲になってしまったのである。 ニクソン大統領辞任後、74年9月18日にニューヨークのマディソン・スクェア・ガーデンで二万数千名を集めて「希望の日」大講演会が開催され、「キリスト教の新しい将来」のみ言を発表された。これを皮切りにアメリカの8大都市で講演会を開催し、10月には文先生が国会議事堂に招請され、特別講演を行なった。

  8. 第二次7年路程(国家的)  第二次七年路程勝利米国での勝利を連結するため、1975年6月7日にヨイド広場で「救国世界大会」が開かれ、世界60か国の代表含む120万人が参加した。文先生は「共産主義は神を否定する恐るべき思想であり、人類を誤った方向に導くものです。これに打ち勝つには、真理に立脚した次元の高い精神的理念と思想武装によらなければなりません。檀君以来の優れた歴史と文化を持つ韓国は、神が導き守られた国として今後とも自由陣営の団結に貢献すべき」と訴えた。 この120万人の大会で政府と国民が文先生と一つになったことにより、2000年前にユダヤ国家とユダヤ教がイエス様を排斥したことを蕩減復帰し、再臨主として国家的勝利基準を立てるに至った。 本来、第二次七年路程の期間は1968年1月から1974年12月までであったが、半年延長してヨイド大会でついに第二次七年路程を終結することができたのであった。このような勝利的基準が立たなかった場合には、アジアは共産化の道を歩まざるをえなかったが、その危機を乗り越えて、第三次の(世界的)摂理に出発することができたのである。

  9. 第三次7年路程(世界的) 1975~81年 第三次7年路程(世界的) ヤンキー大会 1776年の独立宣言から200年後に当たるのが1976年である。 2000年のキリスト教の歴史を象徴する重要な年であった。マディソン大会が蘇生期、ヤンキー大会は第二の立場の長成期であり、ワシントン大会が完成期である。 大会当日の6月1日、夕方近くなって激しい突風が吹き、大雨が降りだし、ヤンキー・スタディアムの会場は水浸しとなった。その時、会場から「ユー・アー・マイ・サンシャイン」の大合唱が始まり、兄弟姉妹たちが大雨の中で3時間近く互いに肩を組み、天に向かって歌い続けた。ブラスバンドも2時間演奏を続けていた。するとその雨が止み、人々がつめかけてきた。再臨主と一つとなった5万人の人々に「アメリカに対する神の希望」のメッセージが伝えられた。 75年12月 米国上下両院合同招待記念講演

  10. 第三次7年路程(世界的)   ワシントン大会 ワシントン大会は40日間の準備期間の中で成された。9月18日の歴史的大会に50万人の人々がワシントン・D.C.に集まってきた。そこで文先生は「アメリカと神のみ旨」というみ言を講演された。歴史の中で中心的立場に立ってきたユダヤ教とキリスト教と統一教会が一つになって世界の宗教を統一し、三つの宗教の基盤であるイスラエルとアメリカと韓国が一つになって世界の統一のために貢献すべきことを訴えられ、最後に人々にその決意を促された。「アメリカは神中心主義によって共産主義世界を解放しなければなりません。そして最後には、地上に神の国を造らなければなりません。明日ではもはや遅すぎるのです。アメリカは、もう神を悲しませてはなりません。今日、我々は全能の神に誓いましょう。『我々は神のみ意(こころ)を果 たします』と。『我々は決して再び神を苦労させるようなことはしません』と。」 ワシントン大会勝利によって、文先生は、神の長子としてカイン圏から世界的長子圏復帰を勝利された。さらに、2000年前に家庭、氏族、イスラエル民族、ユダヤ教、国家に阻まれたイエス様の恨みを解放された。メシヤと世界人類が一つになった条件によって、必ずみ旨が成就するという条件が立ち、1976年10月4日に「天勝日」が宣布された。

  11. 祝   福 1968年2月  430組 1970年10月 777組 1975年2月 1800組 1975年4月から、1800組祝福家庭を中心として世界宣教に出発した。 世界基盤造成 1975年、日本で世界日報、1977年アメリカで日刊新聞「ザ・ニューズ・ワールド」が発刊された。1978年10月にニューヨークで、第1回世界言論人会議が開催され、世界言論人協会(WMA)がスタート。1977年には、米国キリスト教会が合同して社会活動のための全国会議(NCCSA)を、さらに世界で貧困、栄養失調、病気に苦しむ人々のため、国際救援友好財団(IRFF)を設立。 1800組国際合同結婚式

  12. レーガンの選挙はきわめて苦しいものであった。71歳という高齢、既に1976年の選挙で敗北していること、俳優出身であり政治家としての実績がないこと、現職のカーター大統領には根強い人気があること、実に多くの点でレーガンが不利であることは明らかで、ほとんど全ての新聞は「カーター優勢」との論調であった。ところが投票前日、1980年11月4日、文鮮明師は自ら創設した新聞社「NewsWorld」の朴普煕(パク・ポーヒ)社長に対して、「レーガン地滑り的勝利(Reagan landslide)」という記事を大きな活字で大々的に書くよう命じた。朴社長は仰天した。常識で考えれば、レーガンが勝つ見込みもない状況でそんな記事を書いたら新聞社は世間の笑いものになって廃刊に追いやられる。腹を決めた朴社長は文師の指示した通りの記事を出すに当たって、社員たちに対して「明日、潔く殉教新聞になりましょう。最後の新聞を勇敢に作ってください」と語った。 しかし、文師の予言は現実のものとなった。その新聞を手にしたレーガンの映像が、時差のある米国全土の開票に少なからぬ影響を与えてレーガンが奇跡的に圧勝したのである。驚いた米国の記者数百名がNewsWorld社に押し寄せ、いかにしてレーガンの勝利を予測したのかを朴社長から聞き出そうとした。その時、朴社長はレーガン勝利について文師から聞いたこと、文師自身は神から知らされたということを述べた。(人類史の大真実より)

  13. 1983年12月23日「真の家庭」の犠牲 40年荒野路程(1945~85)の原因となった「父母と子女が一つとなれなかった」ことを、最後の3年間(83~85年で蕩減復帰して勝利しなければならなかった。ラングーン事件や大韓航空事件で共産主義世界と緊迫していた83年12月に、韓国各地で勝共大会を行うと決められた真の父母様に対して、教会幹部が年末であることを理由に完全には従順になれずサタンの讒訴条件を造ってしまった。 45 荒野40年路程 83~85 父母 父母 21年路程 子女 子女 「先生がちょうど講演の壇上に立つ時間だったのです。光州は、共産主義の地下組織が多く‥‥工作隊員はあまり早く会場に到着して、人目につくようなことはしません。そこで開会の間際に会場に来たところが、光州の大会会場はもう既に超満員でした。そのようなことが自然に、先生を防御できる良い環境となったのです。そこで、サタンは仕方なく先生の一番愛する息子を選んだのです。」  

  14. 「真の家庭」の犠牲 キリスト教の不信仰によって、再臨主はその位置を降りて40年荒野路程を苦難の中歩まれた。サタンはこの40年路程を奪うことによって、再臨主が再びその立場に戻ることが出来ないように企てた。しかし文先生は真の愛の勝利をされた興進様が奪われるのではなく、イサクの如く聖なる供え物として、特別な祈祷をして神に捧げられた。 「興進様は統一教会に対する全ての責めを負って犠牲になったのです。これによって、他の者がそれらの責めから解放されました。その恩恵は、我々統一教会の者ばかりでなく、自由世界と共産世界の人々にも及びます。‥先生の身代わりとなって行きました。」 「この「愛勝日」の期間は、死んだ息子を側において、結婚式をする時以上の喜びの心情をもって神様を愛するという、心情圏を勝利せずしては越えることができないのです。それで先生は、興進様の葬儀の間は一滴の涙も流しませんでした。」

  15. 1984年1月3日 愛勝日 神の愛 愛勝日は、真の父母様が次男アベルの子女様をイサクの如く、サタン分立された聖なる祭物として捧げたことにより、神様が初めて、真の父母と真の愛で一つになった子女を取り戻すことのできた勝利の日である。私たちは子女様に続いて真の父母様と一つになれば昇華式を通して、死亡圏を突破して神の愛の懐に行くことができるようになった。 本然の霊界 父母 「取って食べたら死ぬ」の戒めを破る 愛勝日 偽りの愛 真の愛 死 亡 圏 興進様 子女 堕落歴史 昇華式 個人/家庭/民族/国家/世界/天宙 人類 「霊界にいるすべての霊人たちが、天国に入ろうとするには、地上で父母様の愛を受けて行かなければならないのです。」

  16. 裁判とダンベリー収監 アメリカでは、宗教団体の財産は最高責任者の名義で管理されるのが普通で、統一教会もその資金を文鮮明先生の名義で銀行に預金していたが、1981年10月に、文先生名義の預金の利息について納税申告を怠っていたという脱税容疑で、ニューヨーク州連邦地方裁判所に起訴された。また、その預金担当神山威氏も起訴された。 教会側は裁判長による裁判を希望したが、裁判所はそれを一方的に拒否して、一般の陪審員による陪審裁判を強制した。しかも検察官が指定した通訳の不手際によって、神山氏は偽証罪に問われた。文先生が有罪ならば、アメリカの多くの宗教団体が脱税で罪に問われなければならない。背景に、フレーザー委員会以降、文先生をアメリカから追い出したい勢力があった。 1984年5月14日、アメリカの連邦最高裁は文先生の上告申請を却下した。先生は国外に出てしまわれれば、服役の必要はなくなる。しかし文先生はアメリカの罪を償うため、ダンベリーの刑務所へ入っていく決意をされたのである。 7月20日の午後11時、文先生と神山威氏は、コネチカット州にあるダンベリー連邦刑務所に収監された。文先生は、 64歳の若くないお体で生涯6回目の牢獄に入られたのである。

  17. ダンベリー刑務所 部屋は電話ボックスの隣で、ボックスにはほうきやモップ、バケツなどが置いてあり、またT型のほうきで押されてきたゴミがいつも置きざりにされてあった。夏には扇風機の風でゴミやほこりが舞い上がるのである。先生はそのような所を率先して清掃された。食堂にも使い終った汚いぞうきんがたくさん入れられたバケツのところに行き、1枚1枚きれいに洗って積み上げておかれた。するとそれを他の人が使ってまたバケツに捨てていくのである。先生は64歳なので係官は「もう掃除はしなくてもいい」と言っても、先生はすべての掃除をされた。また先生が語られたみ言の本を毎日神山氏と読まれながら、感動して涙された。夜12時過ぎに休まれ、3時には目を覚まされて祈られた。そして囚人たちがファーザーと呼んで慕ってくるようになり、徐々に伝道していかれたのである。 監獄の人々が文先生を尊敬するようになった事が一般の新聞の風刺漫画にもなった。

  18. 脱税の罪を着せられた文先生がダンベリー刑務所に収監中に、キリスト教の聖職者たちが「同苦の会」を創り立ち上がった。その不当さに抗議して、共に(手錠をはめて)牢獄に入ろうと意思表明したのである。脱税の罪を着せられた文先生がダンベリー刑務所に収監中に、キリスト教の聖職者たちが「同苦の会」を創り立ち上がった。その不当さに抗議して、共に(手錠をはめて)牢獄に入ろうと意思表明したのである。 文先生はダンベリー刑務所の中から、全米30万人の牧師たちに統一原理のビデオテープと説教集などを配布された。そして統一原理セミナーに参加するよう呼びかけた。その結果 、4万名がセミナーに参加し、7000名以上の牧師たちが38回にわたり、太平洋を渡り、日本と韓国の統一教会を訪問した。特に、釜山のボンネッコル聖地、涙岩で天を仰ぎ聖霊に満たされて祈る牧師たちの姿は、感動的なものであった。宗教・教派の壁を越えてこのようなことが起こったのは、歴史上初めて現れた奇跡であった。

  19. 40年荒野路程勝利 統一教会と、キリスト教会と、アメリカを中心とする民主世界が一体化し、荒野路程終結のための勝利基準が立てられた。 文先生は、1985年8月20日に釈放された。その日の夜、「神と自由のバンケット」が開催され、全米から60以上の教派から2000名の牧師と聖職者が参加した。そこで文先生は「神のみ旨」と題して講演された。ついに再臨主とキリスト教の代表者が握手と抱擁で一つになる場面 は、まさに荒野路程を終結させるにふさわしい情景であった。 米国の裁判闘争の中で1982年5月、文先生はワシントンタイムズを創設された。大統領が最初に読む朝刊となった。

  20. 祝   福 1982年7月 2075組 アメリカで挙行された2075双祝福は、キリスト教2000年の歴史を蕩減復帰していくための祝福であった。この祝福には、日本から多くの優秀な女性が参加した。 1982年10月 6000組 ソウルでの6000双祝福は、人類歴史6000年の解放という、深い摂理的な内容が込められて行われた。10月14日は、真の御父様が北韓の興南強制労働収容所から解放された記念日でもある。 2075組国際合同結婚式(マディソンスクウェアガーデン)

  21. 共産世界崩壊への摂理 荒野40年路程の勝利により、 40年前(1945年)の摂理に戻ることができた。したがって、1945年からの7年間で地上天国を復帰する摂理を、1985年から1992年までの期間で蕩減復帰する時代を迎えたのである。しかし、40年前と違うのは、共産圏という大きなカイン圏が世界を凌駕していたことである。実際この7年間はメシヤがソ連をはじめとする共産圏を壊滅させるという奇跡の7年間となったのであった。 父母 88年9月に天は韓国ソウルでオリンピックが開催されるという一つの奇跡を起こされた。このとき荒野40年路程の勝利圏を引き継いだ韓国(アダム国家)と全世界が連結された。160か国、特に共産圏や第三世界から集まった選手たちを、120か国から集まった統一教会の宣教師たちが物資援助を通して尽くし、カイン・アベルが一つになったことにより、その上に真の父母と一体化したのである。10月3日には「世界統一国開天日」が宣布され、世界が統一され神の国(カナン)が創建される新しい時代を出発できた。 カイン子女 アベル子女 選手 民主世界 120カ国 の宣教師 共産圏 ボイコットなしに久しぶりに両方が参加

  22. 共産世界崩壊への摂理 1983年3月ソ連ゴルバチョフ共産党書記長就任 1983年12月18日 世界平和教授アカデミー(PWPA)第一回国際会議で文鮮明師は、          共産主義は5年以内に崩壊すると宣言。1985年8月ジュネーブ会議で教授たちがソ連帝国崩壊を宣言。(当時としては革命的) ソ連摂理 1989年3月の第10回世界言論人会議に、ソ連の政府機関紙イズベスチヤ、ノーボスチ通信から12名が参加した。 中国摂理 中国の未来を模索する教授10名が、1988年8月に日本で開催された第6回アジア教授統一思想シンポジウムに参加した。このことは共産主義の 中国には想像できない現象であった。そして同年12月の東アジア・シンポジウムの統一思想セミナーには36名が参加、1989年3月のワシントンでの第10回世界言論人会議に、中国の国営新華社通信から6名が参加したのだ。また、1989年5月には文先生の国際ハイウェイ構想を知った中国の要請で、国際ハイウェイ調査団が現地を調査した。さらに経済発展協力ために中国広東省に大規模な自動車工場を建設することになった。

  23. 共産世界崩壊への摂理 政府機関紙、通信社から世界言論人会議に参加。訪韓訪日、文師と会談。文鮮明師ゴルバチョフ会談。 真の父母(メシヤ) 統一運動 それぞれの国がメシヤ自身と統一運動に関心を向けてきた。それがサタン側の基台が崩れていく根本原因となった。 教授らが統一思想シンポジウム、通信社が世界言論人会議参加。国際ハイウェイ、パンダ自動車工場に国家的協助(→北朝鮮接近の要因となる) 文鮮明師金日成会談 神 サ 対峙 アダム国家 エバ国家 北鮮 中国 韓国 日本 天使長国家 ソ連 米国 終焉 冷 戦 1917年ロシア革命 1945年 1990年 70(73)年間

  24. 八定式と天父主義 ベルリンの壁崩壊 9月1日 アラスカで 八定式の宣布によって、カイン・アベルの兄弟主義時代から天父主義時代に変わり、すべての怨讐国家を愛し救う摂理が本格化 宣布 神 天父主義 70日後 再臨主 真の父母 父母主義 1989年8月31日 天宙的長子権復帰(八定式)の基台の上に

  25. ベルリンの壁崩壊 サタンは6数までを奪ったが、天地創造数7×帰一数10=70数 を越えていくことができないという原理観から、真の父母様は、共産主義は70年(73年)を越えられないとかねてから語っておられた。それと同様に、89年9月1日「天父主義」の宣布から、ちょうど70日目(1989. 11. 9)にして東西冷戦の象徴であったベルリンの壁が崩壊した。 東欧革命 1989年に、ソ連の衛星国であった東欧諸国において相次いで共産党政権が崩壊した。 ポーランドおよびハンガリーにおける非共産政権の誕生に始まり、11月のベルリンの壁崩壊、チェコスロヴァキアのビロード革命を経て、12月のルーマニアのチャウシェスク体制の崩壊に至るまで、次々と共産国が崩壊していった。

  26. 古稀の祝賀 1990年2月1日に文先生の古稀(満70歳)を祝う祝賀行事が、ソウルを中心に韓国全土で盛大に開催された。ソウルでの式典では世界から統一運動を支援する前・現職大統領および首相など各界の著名人2000名、さらに韓国内外の教会代表を合わせ1万名余りが参席した。文先生はご自身の70年の歩みを振り返られながら語られた。 「‥‥私の過去七十星霜は、決して易しい道ではありませんでした。この社会に友だちもいませんでしたし、師もなく、実に一人ぼっちの孤独な道でありました。私が数多くの逆境を踏みしめて立ち上がったのも、死地をさまよいながら勇気を失わなかったのも、神様と深い心情的交流があったからでした。誰もその深い境地の対話を知ることはできませんが、常に奥深い勧告を下さる神様は、私の生涯の動機自体であり、生命力の根源でありました。私は他人の言葉に耳を傾ける余裕がありませんでしたし、わき見をすることもできず、世論に神経を使うこともできませんでした。日久月深、神様の願いを思い、細胞が締め付けられるような一体感でもって、その方の創造理想を現実に成就すべき、その道、その目的に向かって、狂ったように駆け登ってまいりました。本来、神様が真の愛を完全投入して創造されたように、再創造過程の復帰摂理においても、為(ため)に生き、完全投入すべきことを知った私は、天命に従って生涯をささげ、この原則を実践してきました。‥‥」

  27. モスクワ大会 第10回世界言論人会議に参加したノーボスチ通信の協力を得て、1990年4月10日から13日まで、モスクワ大会すなわち第11回世界言論人会議、第3回世界平和のための頂上会議、第9回中南米統一連合総会が開催された。ついに、共産世界の中枢部にまで、神様の救援摂理は到達したのである。

  28. イズベスチア新聞社は、「神と私たち─文鮮明師の教え」を10万部発行、ロシヤ各地に配布した。イズベスチア新聞社は、「神と私たち─文鮮明師の教え」を10万部発行、ロシヤ各地に配布した。 後年、韓国を訪れて再会 「‥‥私たちは皆、神を親とした兄弟姉妹です。 昨日、私はゴルバチョフ大統領と意義ある会談を持ちました。私は彼の政策と指導力を尊敬し、称賛します。私は彼に、彼の平和の計画をあらゆる形で助けると約束しました。またゴルバチョフ大統領に、ソ連の成功の秘密は、神をすべての中心に置くことだと告げました‥‥」

  29. 神側の新国連へ 「世界経典」編纂 1991年8月27日、韓国ソウルで世界平和宗教連合創設大会が開催された。20カ国120名の宗教最高指導者が結集した。 体 翌日、各国元首相らが集い、世界平和連合が創設された。

  30. 北朝鮮訪問 47年ぶりの上思里(サンサリ)の生家 金日成主席によって急遽整備されていた。 妹や義姉、文氏族との再会

  31. 北朝鮮訪問 「南北統一は私が立てた基盤を通さなくては成し遂げられません。摂理が要求する統一は統一自体が問題ではなく、統一の基盤の上に永遠な自由と平和と幸福と理想を咲かせるためなのです。ですから、力による統一や相手を不幸にさせる統一などではありません。相手のために尽くし、また尽くす真の愛による統一でなければなりません。」 会談の内容は、離散家族の再会問題、核視察受け入れ問題、南北首脳会談、経済支援などについてであった。さらに、定州の生家跡を平和記念公園にすること、平壌に統一教会の施設を建築することなどが約束された。 この写真と記事(初めて神のみ言)が労働新聞第一面を飾った。

  32. 東亜日報:『新東亜』2000年9月号 平壌到着の翌日、12月1日、文鮮明総裁一行は万寿台議事堂で金達玄副総理、尹基福(74)朝鮮海外同胞援護委員会委員長などと向かい合って座りました。文総裁は「本当に主体思想で統一できると思いますか?人間を誰が造りましたか?神様の意志が無ければ統一は出来ません。金日成主席は私の話を聞かなくてはなりません。神様に従っている私に、北韓を3年だけ任せてくれれば、北韓住民全部を生かすことが出来ます。今まで私が共産主義を無くす運動を展開してきたことは、共産主義が持っている憎悪の思想では問題を解くことが出来ないからなのです。」と言うように熱弁を語りました。朴普熙氏は「‥‥"We are finished"という文字を書いて、同席した随行秘書に渡しました。文総裁の熱弁が終わった後、朴普熙氏は文総裁に「少し言い過ぎてしまったと思います」と言いました。しかし文総裁は「普熙!私が金日成主席に会うために来たと思うか? 話をするために来たのだ。歴史的な出会いだから、話をしないで帰れば、私は神様の前に罪を犯すことになる。」と言われた‥‥。 朴普熙氏は(当社のインタービューに対して)「会談上での文総裁の発言は、当然録音されたと思います。尹基福氏と金達玄氏は文総裁が金日成主席と会って、同じように話をすれば、自分達が火の粉をかぶると思い、文総裁と会わない方がよいと報告したと聞きました。」と語っています。ところが実際は、報告を受けた金日成主席が「その方が語ったという話を聞いて興味が湧いたので会ってみたい。」ということになったのです。

  33. 訪北最後の日の12月6日午前、文総裁一行は興南にある公館に金日成主席によって招かれました。‥‥会談で、文総裁は次のように伝えました。「人間中心の思想では統一を成すことは出来ません。人間の目に見えない良心があるように、神様は目に見えませんが存在しています。…統一は、創造主である神様に頼って推進しなければなりません。」興味があることは、金日成主席の態度でした。金主席は文総裁が話をする途中、3回拍手をしました。金主席は1912年生まれで、文総裁より8歳年上です。金主席は文総裁の説教調の説明を気に留めずに、グラスを持って「私達が兄弟になって統一をしましょう!共に努力して祖国統一をしましょう!」と言いました。‥‥訪北最後の日の12月6日午前、文総裁一行は興南にある公館に金日成主席によって招かれました。‥‥会談で、文総裁は次のように伝えました。「人間中心の思想では統一を成すことは出来ません。人間の目に見えない良心があるように、神様は目に見えませんが存在しています。…統一は、創造主である神様に頼って推進しなければなりません。」興味があることは、金日成主席の態度でした。金主席は文総裁が話をする途中、3回拍手をしました。金主席は1912年生まれで、文総裁より8歳年上です。金主席は文総裁の説教調の説明を気に留めずに、グラスを持って「私達が兄弟になって統一をしましょう!共に努力して祖国統一をしましょう!」と言いました。‥‥ メシヤは最大の怨讐を父母の愛で抱いてしまわれた。後日、もう一度お会いしたいという手紙が届いた。

  34. 祝   福 1988年10月  6500組 1989年1月  1275組 1992年4月  1267組(アラブ圏含む世界の既成家庭)1992年8月 30000組 1986年4月 祝福二世36組聖婚式1989年1月 祝福二世72組聖婚式 3万組国際合同結婚式 祝福二世72組祝福聖婚式

  35. 共産圏解放 奇跡の7年 ソ連帝国崩壊を宣言 米国牧師七千名訪韓 南北統一運動国民連合 6千5百双韓日交差祝福世界統一国開天日ソウルオリンピック 中国、ソ連の解放摂理展開 ベルリンの壁崩壊天父主義宣布八定式 真の父母宣布モスクワ大会 ソビエト連邦解体北朝鮮訪問 3万双祝福メシヤ宣言第1回世界文化体育大典 85年 88年 90年 92年 環故郷本格化(神様祝福永遠宣布)七一節 成約時代へ 1992年8月24日 メシヤ宣言

  36. アメリカ大統領に地滑り的大勝利で当選したレーガン大統領をワシントン・タイムズが支えて、共産主義に向かっていった。Wタイムズはレーガン大統領の政策の教科書として方向を示す役割を果たした。それによってレーガン大統領はアメリカとソ連の関係を善と悪という観点で理解するようになった。レーガン大統領がソ連と徹底して戦う姿勢をもったのはこのためである。‥アメリカ大統領に地滑り的大勝利で当選したレーガン大統領をワシントン・タイムズが支えて、共産主義に向かっていった。Wタイムズはレーガン大統領の政策の教科書として方向を示す役割を果たした。それによってレーガン大統領はアメリカとソ連の関係を善と悪という観点で理解するようになった。レーガン大統領がソ連と徹底して戦う姿勢をもったのはこのためである。‥ 一方ソ連の攻撃能力の中心であるICBMを含む核ミサイルの攻撃に対して致命的打撃を与えたのがレーガン政権の打ち出したSDI構想であった。これはソ連の秘密の核基地から打ち上げられた核ミサイルを宇宙空間から打ち落とすもので、この構想が実現すればソ連のアメリカに対する攻撃能力は決定的に破壊される。コンピューター部門で遅れをとっているソ連がこのSDIに対抗しようとすれば、ソ連の経済は完全に崩壊するという現実に立って、ゴルバチョフは武力による世界共産化の戦略を放棄して、ペレストロイカ、グラスノスチへと大転換をせざるを得なくなったのである。多数派民主党の国会とニューヨーク・タイ ムズ、ワシントン・ポストなどのマスコミの激しい反対の中で‥‥レーガン大統領を励まし続け、政策を最後まで貫かせたのがまさにWタイムズであった。レーガン氏はその八年間の大統領としての任期を終わる最後の日に朴社長を招き次のように述べたのであった。「私のレーガン主義はWタイムズの支援なくしては遂行することができなかったでしょう。Wタイムズなくしては私は共産主義を滅ぼし、とらわれた人々を解放するという役割を果たすことができなかったでしょう。文先生によろしくお伝え下さい。」 (「再臨主を中心とする復帰摂理」Websサイトより)

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