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企業家論⑧ VHSの 高野鎮雄. 樋口徹. 企業家 と 企業家精神. 企業家 とは企業に資本を出し、その企業の経営を担当する人(広辞苑) 「 entrepreneur 」 と は起(企)業家のことを指し、起(企)業家は、イノベーションの担い手として創造性と決断力を持って事業を創始し、運営する個人事業家(事業家として十分に能力を発揮できる人材)と記してある(ランダムハウス大英和辞典)。 事業家 とは、事業を企て、また、経営する人。また、たくみに事業を経営する人。事業者。(広辞苑)
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企業家論⑧VHSの高野鎮雄 樋口徹
企業家と企業家精神 • 企業家とは企業に資本を出し、その企業の経営を担当する人(広辞苑) • 「entrepreneur」とは起(企)業家のことを指し、起(企)業家は、イノベーションの担い手として創造性と決断力を持って事業を創始し、運営する個人事業家(事業家として十分に能力を発揮できる人材)と記してある(ランダムハウス大英和辞典)。 • 事業家とは、事業を企て、また、経営する人。また、たくみに事業を経営する人。事業者。(広辞苑) • ドラッカーは企業家精神( entrepreneurship)とは、「気質の問題ではなく行動の様式である」とした。
ドラッカーの企業家精神『イノベーションと企業家精神』ドラッカーの企業家精神『イノベーションと企業家精神』 • ドラッカーは企業家精神( entrepreneurship)とは、「気質の問題ではなく行動の様式である」とした。 • なぜなら、いろいろな気質の人達が企業家的な挑戦を試み、達成しているので、特定の気質の問題ではない。 • 意思決定の本質は不確実性にあるが、原理というものは存在する。したがって、学んだ上で、意思決定を行うことが重要となる(=行動様式の問題となる)。 • 特に、イノベーションが頻繁に起こる状態では、最適化(固定的な枠組みで最小化あるいは最大化を試みること)ばかりを考えていてはいけない。なぜなら、不確実な事項に対して、意思決定を行わないことの方がリスクを高める結果になる。 • 適切な方法論を持っている人間が企業家精神を持って行動をすれば、小さなリスクで成功を収めることができる。
会社内の企業家? 巨大化した現代企業では、事業部制が多くなっている。 ⇒会社内に、創業者あるいは社長以外にも、事業家(=企業家)の存在は不可欠である。 ⇒いなければ、会社 は衰退していく (一代で傾く)。 ※経営者の役割は自分がアイデアを出すことでなく、周囲の力を引き出すことに変化した(社内で企業家育成)。 職能別組織:企業内における職能による部門化 事業部制組織:事業業単位での部門化
「ミスターVHS」の高野鎮雄(日本ビクター)「ミスターVHS」の高野鎮雄(日本ビクター)
誕生前Ⅰ (1950年代): 家庭用VTRの細胞期 (放送用VTRの誕生) 放送の時差対策で、映像の磁気記録技術は、1950年代に米国で開発された 1956年にAMPEXが、世界初の放送用VTRの開発に成功し、1957年にCBSに納入した 1950年代にAMPEXと競合していたのがRCAであった。1960年ごろには米国の放送用VTR市場のシェアの1/4を占めた 家庭用VTR誕生前 • 誕生前Ⅱ (1960年代): • 家庭用VTRの胎芽期 • (産業用VTR) • 放送用VTRの小型化・低価格化が始まり、産業用に裾野が拡大した • 米国企業(放送用VTRメーカー)と日本企業(家電メーカー)の闘い • 米国勢は量産技術が弱く苦戦している間に、ソニー、日本ビクター、松下電器が商品化に向けて貢献 • 誕生前Ⅲ(1970年代前半) • 家庭用VTRの胎児期 • (試行錯誤の時期 ) • 家庭用市場立ち上げに向かって製品コンセプトが明確になってきた • 家庭用VTRを開発した企業があるが、商品化あるいは量産化に及ばない • 松下電器が最初に家庭用VTRの量産体制を構築したが、需要は伸びず大失敗 • 1970年12月ソニー、松下電器、日本ビクターの間で統一規格(U規格)への合意が成立した。
誕生(1970年代中頃) • 家庭用と放送(産業)用のVTRの大きな違いは、価格・サイズ・安定性・操作性であった。VTRはテレビと比較して、部品点数が多く、特に映像を記録するメカの部分が鍵となっていた。 • ソニーが1975年に発売した「ベータマックス」が最初にこれらの家庭用向け市場の必須条件を同時に満たした機種であったと言える。 • ソニーが「ビデオ元年」と名づけた1976年には日本ビクターがVHS方式VTRを発表・発売を開始し、家庭用VTR産業にとって大きな年となった。 • 1976年(「ビデオ元年」)は、「ベータマックス」対「VHS」が事実上の標準を目指して、国内外で激しいフォーマット(方式)間の競争が始まった年であった。
VTR機種の重量の変化(日本ビクター製品)VTR機種の重量の変化(日本ビクター製品)
成長期前半(1976-1985年) • 1970年代後半は、日本の家電企業の規格(フォーマット)間の戦い(「ベータマックス」対「VHS」)VHS陣営には、日立製作所・シャープ・三菱電機・松下電器が参加を表明した) • 1970年代後半の別の動きは、欧米企業を巻き込んだフォーマット間の競争 ソニー:米国市場に重点を置き、1977年ゼニス(米)とOEM供給を契約 日本ビクター:有力欧州企業とOEMあるいは技術導入契約を締結 松下電器:1977年RCAとOEM契約(その後GE、マグナボックスとも) • 1980年代前半にはVHS規格内での競争の激化が本格化 日本ビクターからOEM供給を受けていた日本の大手家電メーカー(日立:1977年、三菱電機:1978年、シャープ:1979年)が自社生産に切り替えてきたことに加えて、船井電機などの価格競争力に強みのある企業の参入 • フォーマット間およびVHS陣営内の競争を通して、機能が飛躍的に向上 日本ビクターは1977年には家庭用初の倍速再生、1978年には家庭用初のポータブル式、1979年には3倍モード、1983年にはHiFi音声の機種を製品化した。
成長期後半(1986-1995年) • 国内生産台数は高水準を維持しているが、金額ベースでは急激に減少 (国内生産の平均金額修正値や平均国内出荷額修正値も10年間で激減) • 競争が激化し、棲み分けが進む 1) 1994年までに20社以上が家庭用VTR市場に参入 2) 1980年代後半にはローエンド製品で価格競争力を有する企業が OEM供給に加えて、自社ブランドでの販売を強化した。 3)ソニー・松下・ビクターの上位三社が生産台数ベースで90%のシェア (1976年)を誇っていたが、1990年台前半と中頃は40%程度 4)革新的ではないが、延長的な機能が拡充した。日本ビクターは1987年 にS-VHS、1993年にW-VHSを開発し、より高画質機種の販売に力を入 れた。その他にも、BSチューナー内蔵VTR、DVD・ハードディスク搭載V TR、デジタルVTRなども製品化されていた。 5)市場の棲み分け(ハイエンド中心、ミドルクラス中心、ローエンド中心) • 1980年代後半から海外生産が本格化した。1980年代後半は欧米を中心とした市場に近い地域での生産の始まりであったが、アジアでの海外生産が増加した。
国内生産金額と国内生産台数の推移 成長期前半 成長期後半
成熟期(1996-2000年) • 普及率の伸びの鈍化 • 高水準の国内出荷台数(買い替え需要と複数台目需要) (1998年に国内出荷台数のピークを迎え、その後も600万台を越える水準を維持している) • 国内生産の衰退 (2000年は国内生産台数がデシピークを上回った最後の年、修正生産金額ベースでは1999年に下回った)。 • 売上および収益の悪化 (単調下落傾向にあった国内生産の平均修正生産額がこの時期には下げ止まり、2万円前後で推移していた。その一方で、1996年から2000年までの5年間で平均国内出荷金額は37%程度低下し、下落傾向が続いている) • 企業によって差はあるが、国内外の生産拠点の集約傾向が明確化
国内出荷動向 新規需要 買い替え需要+2・3台目 海外生産の効果 国内生産の合理化
衰退期(2001-) • 代替製品の台頭 2001年から2004年の4年間でVTRの普及率は3%の微増であったが、2002年3月には19%であったDVD(録画再生・再生機)の普及率が2005年3月には49%にまで急上昇した(内閣府ホームページの「消費動向調査」)。2001年には販売数量ベースでDVDソフト(4300万本)がVHSカセットソフト(2800万本)を超えた。(日本映像ソフト協会ホームページ)。 • 国内生産から完全撤退 2004年のVTRの国内生産台数が通産省の「機械統計年報」から外されるに至った。その理由は、国内で生産を続けている企業が1・2社にまで減ってしまったためである。 • 企業の退出 1990年前後に40%近くにまで下がっていたソニー・松下・ビクターの上位三社の国内シェアが2004年までには60%近くにまで回復している(『日本マーケットシェア事典』)。この背景として参入企業が1990年代から減少し2003年には10社にまで半減していることが挙げられる(『民生用電子機器データ集』)。
高野鎭雄事業部長の偉業 会社の方針に反して、VTR開発 VHS開発に成功し、VHS陣営形成 規格争い SONYのベータマックス 日本ビクターの成功体験 DVDへの転換失敗 ケンウッドに吸収合併 VHSが世界標準(互換性を維持しつつ、機能拡張) 1990年まで、外国企業は生産すら参入が困難であった