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図解・聖書をどう読むか(新約編) (パワーポイント版) 2007.7.31. 「ラテンアメリカ・キリスト教」ネット 第1回合宿発題より 渡辺英俊. 目次. 聖書理解の両輪をふまえる. これまでのまとめ ……〈 低み 〉 の視座を. 代表的事例となるテキスト. 聖書を聖書たらしめているもの. 失われた羊のたとえ 原伝承の復元 原伝承の意味 伝承過程での改変. 直接証言の現状. 批判的聖書学の成果 ① マルコ優先の確定 ② 語録資料(Q)の確定 ③ 「伝承片」と「伝承様式」
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図解・聖書をどう読むか(新約編)(パワーポイント版)2007.7.31. 「ラテンアメリカ・キリスト教」ネット 第1回合宿発題より渡辺英俊図解・聖書をどう読むか(新約編)(パワーポイント版)2007.7.31. 「ラテンアメリカ・キリスト教」ネット 第1回合宿発題より渡辺英俊 目次 聖書理解の両輪をふまえる これまでのまとめ……〈低み〉の視座を 代表的事例となるテキスト 聖書を聖書たらしめているもの 失われた羊のたとえ 原伝承の復元 原伝承の意味 伝承過程での改変 直接証言の現状 批判的聖書学の成果 ① マルコ優先の確定 ② 語録資料(Q)の確定 ③ 「伝承片」と「伝承様式」 ④ 口頭伝承遡源方法の確立 ⑤ 伝承の型(様式)による分類 ⑥ 伝承の新しさを示す特色 ⑦ 伝承の古さを計るものさし ⑧ 文学社会学という問題意識 ⑨ 視座への問い 安息日の穂摘み事件 原伝承の復元 「人の子」は何をさすか イエスの人権宣言 最も小さい者の一人についての説話 原伝承の復元 六大困窮状態 神の所在への問い まとめ
聖書理解の両輪をふまえる 視座としての〈低み〉& 批判的聖書学 新約であれ旧約であれ、聖書のテキストを読み解くには、二つのものが必要だと考えられます。 一つは、視座。その人がどこに尻を据えているかによって、その人のものの見方、考え方は規定されます。 聖書は、〈低み〉に置かれた人びとの解放の物語ですから、〈低み〉に視座を置くことから理解は始まります。 もう一つは、批判的聖書学。聖書を書いた人びとがどこに尻を据えていたか。それが書いていることにどう影響しているか……。それを解明するためには、近代以降切り拓かれた聖書学の助けが必要となります。 しかし、聖書学自体も、象牙の塔で営まれるものである限り、聖書の理解は阻まれます。〈低み〉の視座からの批判に聞かねばなりません。逆に、視座もまた、自己絶対化に陥らないために、批判的聖書学の指し示すものから自己反省しなければなりません。 二つのものは、車の両輪のように、いっしょに働く必要があるのです。
聖書を「聖書」たらしめているもの 聖書の信仰は、イエスという人物がこの世に生まれ、生き、死んだという事実に基づいています。だから、「イエス」という事件に徹底的にこだわるのです。 事件というものは、「証言」を通してのみ語られ、伝えられます。聖書が「聖書」と呼ばれるのは、この文書がイエスという事件を証言しているからです。 間接証言 イエス事件 直接証言 聖 書 イエス事件の証言には、イエスという人物の行動や言葉を伝える「直接直証」と、イエスを信じた人びとの言動や、イエス事件の背景となった歴史を伝える「間接証言」とがあります。 四つの福音書は、イエス事件の直接証言を含んでいます。新約の他の文書や、旧約聖書は、「間接証言」です。
直接証言の現状 イエス事件 立ちはだかる厚い壁 しかし、四つの福音書の「証言」とイエス事件の間には、立ちはだかる厚い壁があります。 個々の福音書が、それぞれ強い個性を持っているだけでなく、すべての証言が「キリスト信仰」という、「復活事件」後に成立した教会の信仰の刻印を強く帯びており、その色づけによって覆われてしまっているからです。そのため、「イエス事件」が何であったのかを、これらの証言から読み取るには、厚い壁を破る作業が必要になります。 19世紀以降の批判的聖書学の努力は、この壁を越える方法を追求することにありました。 マルコ ヨハネ マタイ ルカ 共観福音書 四つの福音書を比較してみると、マタイ、マルコ、ルカの3福音書は、共通記事が多く、較べてみるのに便利なので、「共観福音書」と呼ばれます。ヨハネ福音書は、他の福音書との共通点はごくわずかで、独特の世界を構成しています。批判的聖書学の探求は、共観福音書の綿密な比較から始まりました。
批判的聖書学の成果① ……マルコ優先の確定批判的聖書学の成果① ……マルコ優先の確定 AD30 イエス事件 共観福音書の比較研究がもたらした最大の成果は、マルコ優先の確定でした。 3福音書の共通記事では、マタイとルカが共通してマルコと違っているところはありません。逆に、マタイ・ルカの一方がマルコと違っている場合には、他方がマルコと同じである場合が多いのです。つまり、マタイとルカの間には、どちらかが他方を下敷きにして書いた可能性はありません。 AD50 マルコ福音書 AD70 AD90 ルカ福音書 マタイ福音書 ヨハネ福音書 それに対して、マタイとルカがそれぞれ別々に、マルコを下敷きにしている場合にこういうことが起こると考えられます。 これと違って、ヨハネ福音書は、わずかにマルコと共通の記事を含んでいますが、共観福音書とは直接関係なく書かれたものであることがわかりました。
批判的聖書学の成果②……語録資料(Q)の復元批判的聖書学の成果②……語録資料(Q)の復元 イエス事件 AD30 共観福音書の比較研究が生んだもう一つの大きな成果は、マタイとルカが共通に持っていた文書の発見です。 両福音書を綿密に比較すると、マルコにない記事を共通に載せており、しかもそれが、こまかい字句まで一致していることが多いのです。これは、共通の資料を文書で持っていなければ起こらないことです。 また、内容的にはほとんどイエスの発言の記録であるところから、この文書は「語録資料」と呼ばれ、「Q」とうい符号がつけられました。 AD50 イエス語録 (Q) AD70 マルコ福音書 マタイ特殊資料 ルカ特殊資料 AD90 マタイ福音書 ルカ福音書 ヨハネ福音書 考古学で、土器の破片が畑から掘り出され、継ぎ合わされて復元されるように、Q資料は、共観福音書という畑から掘り出され、復元された文書です。成立年代が、マルコより約20年遡ると言われ、イエスの事件に迫る重要な手がかりとなりました。 これだけ資料が見分けられると、それ以外に、マタイ・ルカがそれぞれ独自の資料を持っていたことも分かりました。
批判的聖書学の成果③……「伝承片」と「様式」批判的聖書学の成果③……「伝承片」と「様式」 伝承片(ペリコーペ)の見分け 福音書の元になった二つの文書の確定で、イエス事件に迫る大きな手がかりはできましたが、二つの文書とも、壁のこちら側で成立したものであり、これだけでは壁を越えることはできませんでした。 20世紀に入っての大きな発見は、福音書という文書が、著者によって書かれた著作物であるよりは、伝承片(ペリコーペ)を継ぎ合わせた編集物であることに気付いたことです。 材料は、口伝えにされてきた伝承片(ペリコーペ)。それを時間の順序に並べると時間の流れが生じます。また、編集加筆でノリしろをとって伝承をつなぎ合わせます。著者の考えに合わせて伝承に手を加えることもします。 様式による分類 編集作業の見分け 福音書=伝承片をつなぎあわせたもの 時系列の配列 編集 編集加筆 伝承の改変 福音書という書物は、そういう伝承片の編集によって成り立っているのです。 だとすれば、口伝えにされた伝承の中には壁の向こうからきたものもあるはずです。こうして、伝承片の様式から、より古い伝承を見分けたり、伝承をつなぎ合わせるときの著者のクセ(編集傾向)から、著者の考え方を浮かび上がらせたり、伝承にどのように手を加えたかなどを見分けることができるようになりました。そして、手を加えられる以前の伝承の姿も復元できるようになったのです。
批判的聖書学の成果④……口頭伝承遡源方法の確立批判的聖書学の成果④……口頭伝承遡源方法の確立 イエス事件 AD30 口頭伝承群 AD50 イエス語録 (Q) マタイ特殊資料 AD70 マルコ福音書 ルカ特殊資料 ルカ福音書 マタイ福音書 AD90 福音書の批判的研究から明らかになったことをまとめると: 紀元30年頃から70年頃に、イエス事件の直接証言は、「口頭伝承」(口伝)という形で 口伝えにされており、 それが、紀元50年頃に、イエスの言葉が「イエス語録(Q)」として文書にされ、 次いで紀元70年頃に、イエスの事跡を中心に、マルコ福音書として、文書化された…… そして、口伝には、あの壁の向こうから来たものもあるはずで、それを見分けることが 次の課題となりました。 ヨハネ福音書
批判的聖書学の成果⑤ ……伝承の型(様式)による分類批判的聖書学の成果⑤ ……伝承の型(様式)による分類 口伝は、伝えられる間に当時の伝承文学の型にはめられ、 共通の様式(form)を持つようになります。 共観福音書の伝承も、そういう共通の様式によって、いくつかに分類できます。 ①譬え話……これは初めからまとまった話として語られ、記憶 されやすいので、古いものがそのまま残る可能性が高いと 思われます。 種蒔く人のたとえ(マルコ3:3-8)、失われた羊のたとえ (ルカ15:4)、ぶどう園の失業者のたとえ(マタイ20:1- 15)など ②短言……短く鋭い発言に、短い場面設定がついたもの。多く の場合、言葉だけが伝わっており、それに後から説明的な 場面設定が付加されたものです。発言の方に古いものが よく残っています。 人間が安息日の主人だ(マルコ3:27-28)、人間には 枕するところもない(マタイ8:20)など。 ③主の言葉……さまざまな発言や教えがひとまとまりに編集さ れたもの。 山上の説教(マタイ5-7章)が代表例。 ④奇跡物語……イエスの行ったという癒しや嵐を鎮めるなどの 奇跡の物語。 ⑤伝説……イエスに関するさまざまな伝説的記述。 譬え話本体 編集句 短く鋭い発言 ①譬え話 ②短言 ③主の言葉 ④奇跡物語 ⑤伝説 場面設定 編集者の作った大枠 説教や発言の伝承片 治癒奇跡 自然奇跡 誕生物語 洗礼伝説 荒野の誘惑伝説 変貌伝説 受難史伝説 復活伝説……
批判的聖書学の成果⑥……伝承の新しさを示す特色批判的聖書学の成果⑥……伝承の新しさを示す特色 イエス事件 復活信仰 黙示思想 神の子の奇跡 キリスト論的色づけ 優者肯認 付き従うことの強調 キリストの神性の強調 教会的動機 著者集団の神学 伝説 奇跡物語 短言 譬え話 主の言葉 同じ様式を持つ伝承を比較することにより、伝承の古さ・新しさを計るものさしになるような特色を見つける ことができました。各様式に共通して、次のような特色は、伝承が後代のものであることを示します。 ①復活信仰の刻印を帯びている伝承は、復活信仰成立以後、つまり壁のこちら側である ②復活信仰は、紀元1世紀のユダヤ教の黙示思想と結びついている。それは、 「世の終わりの時が近い。そのときには、死者はすべて復活して神の審判の前に引き出される」 というもので、「キリストが最初の復活者として復活したので、もう世の終わりは始まっている」と信じる のは、教会の信仰の特色である ③イエスを、神の子・天から審判者として来る人の子・ダビデの子メシア(キリスト)とする「キリスト論」の 色づけが強くなるものほど、後の伝承 ④マタイ・ルカ(またはその属する集団)は独自の神学を持っており、それが編集に現れている 個々の様式についても、たとえば、 譬え話……優者がよいとされているもの 短言や主の言葉……キリストに付き従うことの強調 奇跡物語……「神の子」としての奇跡の強調 伝説……キリストの神性の強調 などは、後の時代にできた伝承の特色であることがわかります。
批判的聖書学の成果⑦……伝承の古さを計るものさし批判的聖書学の成果⑦……伝承の古さを計るものさし イエス事件 癒し・供食 社会復帰 受動的発動 受難史の一部 劣者尊重 復活信仰 黙示思想 優者肯認 神の子の奇跡 キリスト論的色づけ キリストの神性の強調 付き従うことの強調 教会的動機 著者集団の神学 奇跡物語 伝説 主の言葉 短言 譬え話 これに対して、後代の教会の信仰の色づけがないものは、口伝えの途上で、教会が創作する理由が ありませんから、壁の向こうから伝えられたものと考えることができます。そのほかにも ○譬え話を較べてみると、優者肯認(優れたものがよいという価値観)の譬えよりも、劣者尊重 (価値はかり方をひっくり返しているもの)の方が古いことがわかります。 ○短言や主の言葉などのことば伝承では、「主に付き従うこと」を強調したものは、Q集団(Q資料を 作った共同体)の考え方を反映しており、壁のこちらがわです。 ○奇跡物語では、「神の子の栄光をあらわす奇跡」として語られているものが多く、これは教会の 信仰物語として後から作られたと思われます。 壁の向こうまで遡れる伝承は、 ①奇跡が受動的に発動される(助けを求められてそれに応えておこなわれる) ②イエスでなく、助けを受ける人が話の中心になる ③癒しや供食のように、日常的で奇跡性がわりと薄い ④結末が社会復帰につながっている などの特色がみられます。 ○伝説に分類されるものは、受難史の一部の除き、ほとんどが後で作られたものです。
批判的聖書学の成果⑧……「文学社会学」という問題意識批判的聖書学の成果⑧……「文学社会学」という問題意識 伝承のテキストは、それを取り巻く社会文化的状況の中で できていき、できる途中で、周囲の社会文化的状況を映し出して行きます。 言葉は状況との関わりで意味機能を果たすものですから、 伝承のテキストが言おうとしていることを理解するのには、 「テキストの状況」を知ることが不可欠です。しかし、状況は 消えて行くものですから、テキストに写った社会文化的状況 から、それを推定復元するほかありません。 古代のテキストから、それを取り巻く社会文化的状況を推定復元しようとする試みを「文学社会学」と呼びます。 テキスト テキストを取り巻く社会文化的状況 福音書の伝承が、どのような社会文化的状況の中で語られ、 語り手と聞き手はどのような社会意識を持ってそれを語り、聞き、また語り伝えたか……。 そういう視点からテキストに向きあうことを、「文学社会学」は 求めています。 それをやってみた結果、重要なことが分かりました。 伝承のテキストに反映された「社会文化的状況」によって、 その伝承の古さ・新しさが見分けられる場合が多いという ことです。 たとえば、イエス集団まで遡れる伝承は、「ムラ」社会を背景にしているのに対し、後の教会の伝承は「マチ」社会で成立 していることなどです。 テキスト テキストから推定復元される 社会文化的状況
批判的聖書学の成果⑨……視座への問い しかし、「文学社会学」という問題意識をもってテキストに向きあうとき、もう一つの重要な事実に直面します。 テキストに反映している社会文化的状況を把握するには、社会学と いう学問的知識の助けを必要としますが、ここで最終的にモノを言う のは解釈者の「想像力」だということです。 そして、想像力は、解釈者が生きてきた、そして今生きている社会 文化的状況に、決定的に規定されています。 早い話が、生まれつきの金持ちには、貧しい人びとの暮らしの苦しみ は想像もできません。 「パンがないなら、ケーキを食べたら?」 というのは、愚かさのしるしではなく、想像力の限界のしるしなのです。 テキストの社会文化的状況 テキスト テキスト解釈=二千年を遡る作業 こうして、テキスト解釈の営みは、読み手の社会文化的状況への問いになってはね返ってきます。 それは、イエスが生き、活動した社会文化的状況が、「先進国」の富裕の中で想像できるか……という問いであり、 「あなたはどこに尻を据えて聖書を読もうとしているのか。」 という問いなのです。 現代世界で、イエスの状況に最も近いのは、奪われて貧しくされた人びとの「場」─第3世界─なのではないか。そこに行って見てくることなしに、 聖書が読めるのか……という問いなのです。 読み手の社会文化的状況 被収奪地域 (第3世界) 読み手 2000年を遡るために、20000キロ移動せよ 民衆
これまでのまとめ……〈低み〉の視座を 解釈 テキスト 批判的聖書学が追求してきたものをたどっていくと、 福音書伝承の古層のテキストが指し示すイエスの視座は、 紀元1世紀ユダヤ社会の下層にあったことがわかります。 そのことは、現代の世界で聖書を解釈しようとする者が、 出発点でクリヤーしておかなければならない問題を明らかにします。 現代世界の「先進国」の富裕の中でも、超特権的に位置づけられている「大学」の研究室という「場」で、〈低み〉の視座をどう確保できるのか……。それはマリーアントワネットのベルサイユ宮と同じくらい、想像力の閉ざされた空間ではないのか……という問いです。 ひ テキスト 解釈 イエスの視座 現代の低み 〈低み〉からの視座 もちろん、情報収集という観点からは、そのように保護された場が有利であり、必要不可欠であることは否めません。しかし、そこからの研究成果が「権威あるもの」として通用してしまう状況というのは、聖書学の腐敗なのではないか……という問いが投げかけられねばなりません。 現代聖書学の到達点自体からの問いとして、研究者が〈低み〉の現場に身をさらすこと、少なくともそことの交流を絶やさず、そこからの声に耳を傾けて、自らの視座を問い直すことを求めているのではないか……。 わたしたちが、ブラジルのファベイラやノルデスチ(東北地方)にこだわるのは、日本では、寄せ場にいてもなお到達できない〈低み〉の現実と、そこでの聖書の読み直しの試みに、そこで出会うからです。
代表的事例となるテキスト 批判的聖書学の助けを借り、〈低み〉の視座から福音書伝承を読み込んでいくとき、「壁」の向こうに起源を持ち、恐らくはイエス自身に遡るとみられる伝承を見分けることができます。それらに共通しているのは、抑圧・差別の現実に切り込む鋭さであり、抑圧する者への批判の厳しさであり、貧しく小さくされた人びとへのまなざしの暖かさです。そこに語られている「福音」は、聖書の他の箇所に書かれている事柄を計るものさし(カノーン)と呼んでもいいと思われます。 ここでは、それらの中から、3つの代表的な事例をあげてみます。 • 例1 「失われた羊」のたとえ (ルカ15:1-7//マタイ18:12-14 Q) 「たとえ」であることにより他の様式よりも保存性が高いこと、原伝承の復元と改変過程の追跡が可能である こと、イエスの振る舞いの根源的性格がよく現れていること、当時の被差別層である「羊飼い」の生活感覚を 反映したものであることなどにより、まさにイエス事件の質を示す「ものさし」にふさわしい事例です。 • 例2 「安息日の穂摘み」事件(マルコ2:23-28) 「短言」の代表例で、キリスト論的荷重をかけられる以前の意味を復元することが可能。そしてそれをやって みると、イエスの「人権宣言」ともいうべき発言が浮かび上がってくると共に、生活保護受給層の視座からの 律法批判が聞き取れます。 • 例3 「最も小さい者の一人」についての説話(マタイ25:31-46) 教会的色づけのまったくない原伝承説話の復元が比較的容易にできます。そこでは、六大困窮状態におかれた人びと への関心が第1義とされていると同時に、「〈低み〉にいます神」という、神の在りようと在りかに関する根本的問いが 投げかけられています。
マタイ・ルカ共通資料(Q)の代表例 例1 「失われた羊」のたとえ 対観表にして較べてみると、一致点と相違点がよくわかり ます。(ブルーの色づけの部分が一致点) 色づけの部分をまとめると、中枠のとおり、Qでどうなって いたかを復元できます。 原伝承は しかし、イエスの短い譬えは問いかけで終わっている ものが多いこと、また後でみるように、「汝らに告ぐ」以 下がQの付け加えと見られることから、Q以前の伝承は、 下枠の中(赤字)のように 「……そのもとへ行かないであろうか」 という問いかけで終わっていた と思われます。 Qの付加 「汝らに告ぐ」(レゴー・ヒュミーン) というのは、Qが伝承に解釈を付け加えるときによく 使う定型句です。 これ以下がつくとつかないとで、内容がまったく変わって しまいますから、「汝らに告ぐ」以下は、Qが元の伝承に 付加した部分と考えられます。 福音書著者たちの付加 マタイ、ルカを較べてみると、それぞれが特徴のある 加筆・改変をしていることがわかります。 マタイでは……羊が「迷い出た」、羊飼いはほかの 羊を「山に残して」行った。 ルカでは、見つけた後に重点が移り、小説的に敷延、 「罪人」の悔い改めの話とされる。
原伝承の意味 復元された原伝承 復元された元のたとえには、「羊飼い」の生活感覚が反映しています。 「そのもとへ行かないであろうか」と問うときには、 聞き手である、羊飼いやその仲間の貧しい人たちは、「ああそうだ。それが当然のやり方だよ。」 と答えるはずです。 当時の被差別者であった羊飼いは、地主のダンナ衆 から群れをあずけられ、一匹でも失ったら弁償させられる、過酷な労働を強いられていました。羊の一匹一匹に生活がかかっているので、一匹失ったらそれに命 がかかってしまうのです。 だから、1匹のために99匹を置き去りにしてでも探しに行くのです。 ある人が百匹の羊を持っていて、一匹を失ったならば、 九十九匹を荒野に放置して、失ったものを見つけるまで、 そのもとへ行かないであろうか。 1>99 そこでは 1>99 という逆説的な計算──価値の逆転──が成り立ってしまうのです。 99 そしてこれは、失われた者に徹底的にこだわる 神の態度決定と重なるイエスの態度決定を示し ています。 神の態度決定 =イエスの態度決定 最も低くされた人びとの生活感覚に根っこを持つ視座の 低さ、生活の断片から常識を覆す逆説の鋭さ、そして、 後の教会がいじくり回してつけた手垢と較べて、教会が 創作する動機がないことなどから、イエス自身に遡る 伝承と考えることができます。 失われた1
伝承過程での改変 Qの付加によって起こった変質 そして見つけたならば、汝らに告ぐ、九十九匹に ついてよりも、その一匹について喜ぶであろう。 探しに行ったのですから、見つけた話を付け加えたくなるのは人情でしょう。しかし、一匹を追っていなくなってしまう羊飼いの話とは質が違ってしまいます。これは 百匹いました。一匹いなくなりました。探しに行って 連れ帰って、もとの百匹になりました。 という話です。数式にすると 100-1+1=100 これはただの算数です。関心は「全体性」の完結にあり、失われた者への関心はそこに行くためのプロセスに過ぎません。 福音書著者の改変によって起こった変質 マタイでは、一匹の羊は「迷い出た」と変えられています。羊の自己責任です。九十九匹は「山」に残されます。マタイのイメージでは 山=教会です。 これは、教会から迷い出た信徒を連れ戻す話で、「牧会」という教会維持活動に話が転化されています。 ルカでは、失われた一匹の羊とは「罪人」つまり、悔い改めるべき未信者です。だから、未信者が入信したら、みんなで喜ぶ話になっています。「伝道」という教会拡張活動の話に転化されているのです。 こういう教会化された話にくらべると、もとのイエスの 発言の切り込みの深さがいっそう浮かび上がります。 このたとえは、イエスの基本的態度を示し、他のすべて の伝承を判断する指標になるでしょう。
例2 「安息日の穂摘み」事件 (マルコ2:23-28) 発言が先にあり、それを説明する場面が後で付加された伝承で、 「短言」の代表的なものです。 二重の発言 発言が、25-26節(茶色)と、27節(赤)で二重になっており、 「言われた……そしてさらに言われた」 と重ねられています。この積み重ねはどちらかが後から挿入されたものであることを示します。ここでは、茶色の部分が、あとから加えられた説明であることがはっきりわかりますから、赤字の部分(27-28節)が、元からあった発言です。 ある安息日に、イエスが麦畑を通っ て行かれると、弟子たちは歩きながら 麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の 人びとがイエスに、 「ごらんなさい。なぜ、彼らは安息日にしてはなことをするのか。」 と言った。イエスは言われた。 「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」(25-26節) そしてさらに言われた。 「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから人の子は安息日の主である。」(27-28節) 場面設定の問題 麦畑の現場でのファリサイ派とのやりとりだという場面設定は不可能(ファリサイ派が安息日に旅をして麦畑イエスの一行と出会うことはあり得ない)で、発言を説明する理念的場面として付加されたものでしょう。ただ、麦の穂摘みの問題は、発言部分と深いつながりがあり、実際の発言の背景として、重要だと思われます。 ダビデ云々発言の付加 25-6節に後から付加された発言(「ダビデが云々」)は、イエスはダビデ にまさる人 (=キリスト)だから安息日を破る権威がある、という教会の 信仰から付加したもの。27節の発言のラディカルさを「例外」の話に やわらげ、キリスト論の側に話を引き寄せています。 残るのは27-28節:この発言はイエスに遡り得るか?
「人の子」は何をさすか ① この発言がイエスにまで遡れるのかどうか。その決め手は、この句で「人の子」がどういう意味で使われているか──にあります。 「安息日は、人のために定められた。 人が安息日のためにあるのではない。 だから人の子は安息日の主である。」 (27-28節) 多数意見: この句では「人の子」は、「キリスト」が自分をさして「(キリストなる)わたし」という、キリスト論的意味で使われて いる。これは教会の信仰を反映しているので、イエスの言葉 ではない……というのが多数意見です。 福音書の「人の子」の3重性 キリスト論的負荷 福音書の中で「人の子」が使われる場合、左に掲げた3つのいずれかを意味 していると思われます。 ①はイエスの使っていたアラム語のふつうの意味で「人間」 という意味、 ②は、福音書が「キリスト」なるイエスにだけ使わせている特殊な1人称 (昔、日本でも「朕」という特殊な第1人称を使う人がいた──あれと同じ) ③は、終末の時に天から再臨する審判者キリストを指す3人称「天的人の子」 ①一般的意味 人の子=人間 ②キリストの特殊第1人称 ③天から来る審判者「人の子」 ②と③はキリスト信仰を前提にしており、キリスト論的負荷のかかった使い方ですから、復活後の教会がイエスに語らせたものと言えます。 問題はその次です。 福音書の伝承では、イエスが①の意味で「人の子」を使った例はない。 だから、マルコの当該箇所の「人の子」も、②のキリスト論的1人称として用いられている。 だからイエスの言葉ではない…… というのが多数意見の根拠なのです。
「人の子」は何をさすか② イエスが「人の子」を「人間」という意味で使った例はないのか? イエスに対して、 「あなたがおいでになる所なら、どこへ でも従って参ります」 という人がいた。イエスは言われた。 「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子 には枕するところもない。」 (マタイ8:20//ルカ9:58Q) イエスの発言に出てくる「人の子」で、「人間」という意味に用いられて いる可能性があるのは、マルコの当該箇所のほかに、 左に掲げたQの句があります。 これも、言葉に後から場面がついた、典型的な「短言」です。 イエスに付き従うという申し出をイエスが拒否した言葉……ということに なると、キリスト論的負荷がかかり、「人の子」は、「(朕的)わたし」の意味 になります。でも、この場面設定はQ伝承の付加です。 キリスト論的負荷をのかかった場面設定を取り除いて、発言の本体「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない」を、独立して取り出してみると、ここで使われている「人の子」が「(朕的)わたし」であると言える根拠は何もありません。 それなのに、ある有名な聖書学者は、この言葉についてこう言っています: ここの「人の子」は「人間」という意味ではあり得ない。(人間に寝るところがないという)そのようなことは、戦争の時でもなければ あり得ないから。 (エドワルド・シュバイツァー「マタイによる福音書」) だから、ここの「人の子」は、「(朕的)わたし」だというのです。……ちょっと待った! 私が「横への移動、」つまり〈フィールドワーク〉が、新約聖書学でさえ不可欠だと言いたいのはここなのです。 野宿者の夜回りに1度でも参加したことがある人なら、ここで発言者が何を嘆いているか、直ちに理解するでしょう。 狐には穴があり、空の鳥に巣があるのに、人間には寝るところがない……貧しい人たちの置かれた現実に胸を刺された発言です。 ここでの「人の子」は「人間」以外の意味ではあり得ません。この発言は、イエスの活動場面と重なり、教会が創作する理由はあり ませんから、イエスに遡るものと言えます。 イエスはここで確かに、アラム語「人の子」を「人間」という普通の意味で使っているのです。 だから、マルコの当該箇所についての多数意見は、成り立ちません。「人の子」は「人間」です。 この言葉には「キリスト論的負荷」はまったくかかっていません。そして マルコもビビるような大胆な発言を教会が創作する理由がありません。 人間は安息日の主である
「人間が安息日の主である」 ◇「麦の穂摘み」権 左掲のイエスの発言が、麦の穂摘みとのつながりで語られたという、伝承の場面設定は、事実を反映していると考えられます。それは、麦の穂摘み権こそ、イエスの時代に貧しい人びとから奪われていたものだからです。 空腹の人は、誰の畑であれ入って麦の穂を摘んで食べてよろしい(申命記)……という法律は、イスラエル共同体における生活保護法であり、「(何人も)健康で文化的な最低生活を営む権利を有する」(憲法25条)の源です。 「安息日は、人間のために定められた。 人間が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子たる者(人間)こそが 安息日の主である。」 (渡辺訳) 「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。(申命23:26) ◇世界最初の週休規定 出エジプト記 20:10 (23:12参照)は、祭司典の「安息日」規定でふくれあがっていますが、左に掲げた部分は、それ以前の古い規定です。これは、労働者の休む権利を認めた、世界で初めての週休規定であり、世界最古の労働基準法と呼ぶに値するものです。 七日目は、いかなる仕事もしてはならない。 (出エ20:10) ◇安息日律法の欺瞞性 ところが、BC6世紀後半以降に成立した祭司典は、これを創造神話と結びつけて宗教化することにより、「安息日」律法に変えました。 「休む権利」が「休む(宗教的)義務」に変質したのです。 そして、休む暇のない貧しい人びとは、律法を守らぬ「罪人」とされるようになりました。 ◇「安息日律法」による「麦の穂摘み権」の扼殺 日雇い労働者にとって、「安息日」は失業日だったでしょう。その日は飢える日です。最も麦の穂摘み(生活保護)が必要な日に、安息日律法によって 穂摘みが禁じられたら、それは生活 保護の打ち切りと同じです。 「人間が安息日の主である」という発言は、この欺瞞を告発しているのです。 イエスは、律法を越える人間の権利を宣言しています。これは、イエスの人権宣言なのです。
例3 「最も小さい者の一人」についての説話(マタイ25:31-46)例3 「最も小さい者の一人」についての説話(マタイ25:31-46) 31人の子は、栄光に輝いて天使たちを従えて来るとき、その栄光の座に着く。32aそして、すべての国の民がその前に集められると、 32b[王は]羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。34そこで王は右側にいる人たちに言う。 「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されていう国を受け継ぎなさい。 35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 36裸の時に着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」 37すると、正しい人たち[彼ら]が王に答える。 「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが乾いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。39いつ、病気をなさったり、牢におられたりする のを見て、お訪ねしたでしょうか。」 40そこで、王は答える。 「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」 41それから、王は左側にいる人たちにも言う。 「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。42お前たちはわたしが飢えていたときに 食べさせず、のどが乾いたときに飲ませず、43旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれな かったからだ。」 44すると彼らも答える。 「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、乾いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのも見て、お世話 しなかったでしょうか。」 45そこで、王は答える。 「はっきいり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」 46こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。 原伝承の復元 上掲の表で、赤で書いた部分はマタイの加筆と思われます。 46節 「正しい人」(ディカイオス=義人)はマタイの好んで 使う言葉。句全体がマタイの付加と見られます。 31節 ここの「人の子」は、天から来る審判者キリスト。 典型的なキリスト論的「人の子」です。 32節b以下の主語は「王」なのに、ここだけ「人の子」。 この句は、以下の説話をキリスト教化するための マタイの加筆と見られます。 31節 「正しい人」も同じ理由からまタイの付加。 32節b 「わたしの父」はキリストを神の子とする句。 40節 「わたしの兄弟である」は話を教会に限定する句。 45節の並行句にはない。マタイの付加。
元の説話 (神が王として審判の座に着かれるとき)、[王は]羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を 左に置く。そこで王は右側にいる人たちに言う。 「さあ、祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸の時に着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」 すると、[彼ら]が王に答える。 「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが乾いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」 そこで、王は答える。 「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」 それから、王は左側にいる人たちにも言う。 「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちはわたしが飢えていたときに食べさせず、のどが乾いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかったからだ。」 すると彼らも答える。 「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、乾いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりする のを見て、お世話しなかったでしょうか。」 そこで、王は答える。 「はっきいり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」 マタイの付加を取り除くと上記のような原伝承を復元できます。ここには、教会的色づけや、キリスト論が 全くなく、伝承の途中で教会が創作する理由がありません。イエスまで遡れると思われます。
イメージの枠組み(フレームワーク)と中身 枠組みとしての「審判」 話の舞台装置は、〈世の終わりの日に、神が「王」として審判を行う〉という場面です。 これは、仏教での〈地獄極楽〉物語と同様、聞き手がよく知っていた通俗的な場面を話の枠組みを使って、神の前で いちばん大事なことは何かを語ろうとする、説話の語り口です。 だから〈審判〉は話の本筋ではなく、枠組みに過ぎません。 問題はそこで行われることの中身なのです。 問われる中身は? 王の前で問われるのは、「最も小さい者の一人」にしたか、しなかったか……です。 その「最も小さい者」とは ①餓え ②渇き ③旅 ④裸 ⑤病気 ⑥獄 という六大困窮状態に置かれた人です。 権力社会 搾 取 誰が誰を「小さい者」とするのか 権力社会の搾取構造の下に組み敷かれた 人びとは、奪われ、貧しくされ、あらゆる困窮 状態をしわ寄せされます。 その代表的なものが、ここに挙げられている 6大困窮状態なのです。 この人びとに対して何をしたか……ということ が、神の前で問われるのです。 餓え 裸 渇き 病気 獄 旅
「神の所在」ヘの問い この説話は、神の所在への根本的な問いを投げかけています。 神は「天」にいるのか? もし、「天」が、世界の上の高いところにある、栄光に満ちた王の宮殿のような場所なら、そこには神はいません。 神は、地上の「最も小さくされた人びと」の置かれた6大困窮状態の中におられる……と、 イエスの説話は語っているのです。 イエスは、最も低くされた人びとの「場」に、神の所在を見ている
むすび 「私」はどのようにして、イエスについての証言を 聖書から聞くことができるか? イエス事件 教会の信仰で塗り固められた厚い壁を破って、イエス事件に 肉薄してみると、そこで出会うのは、 最も小さくされた人びとの場に身を置き、 そこで働き、 この人びとこそ、神が最もこころにかけられる 「失われた人びと」なのだ……と語られたイエスです。 立ちはだかる厚い壁 私 それだけでなく そのように生き、それ故に権力によって抹殺されたイエスの姿こそ、この世界で働かれる神の 在りようを写しており、神の在りかを示しているのだ……という事実です。 ここでは、教会の伝統的な信仰のあり方が、 真っ正面から 「それでいいのか!」 と問われているのです。