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学問   ホツマツタヱ  上級編

学問   ホツマツタヱ  上級編. 最終版_改1 更新. 年表の変更点         (追加 6月27日付)  (1)2倍化暦→1倍化暦(普通暦)に変換。(3 / 13)  (2)太陰太陽暦→太陽暦に変換。 (3 / 13)    (3)、(1)(2)項より不知火の発生月を再現 (3頁) . サブタイトル : ホツマツタヱ ( 秀真伝 ) に              古代ロマンを求めて 2014年11月27日現在   全234頁 ホツマツタヱ研究家 吉田六雄. ホツマツタヱは、神代~上代の歴史書.

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学問   ホツマツタヱ  上級編

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  1. 学問  ホツマツタヱ 上級編 最終版_改1 更新 年表の変更点         (追加 6月27日付) (1)2倍化暦→1倍化暦(普通暦)に変換。(3/13) (2)太陰太陽暦→太陽暦に変換。 (3/13)    (3)、(1)(2)項より不知火の発生月を再現 (3頁)  サブタイトル : ホツマツタヱ(秀真伝)に              古代ロマンを求めて 2014年11月27日現在   全234頁 ホツマツタヱ研究家 吉田六雄

  2. ホツマツタヱは、神代~上代の歴史書 ホツマツタヱは、漢字の影響を受けない唯一の日本古来の   歴史書である。文字は神代文字の「ヲシテ」である。 【根拠】 ホツマツタヱは、漢字が伝来する以前に、完成し奉納されていた。 (1)ホツマツタヱの完成は、アスス暦の843年(西暦261年頃)   になり、琵琶湖近くの淡宮(現在の多賀大社)に奉納された。 (2)一方、漢字の伝来は『日本書紀』応神天皇十六年三月条に、   王仁が渡来して太子菟道稚郎子の師となり諸典籍を教えた   ことが記され、『古事記』には、百済国から和遁吉師が『論語』   十巻と『千字文』一巻を持ち来たったことが記載されている。   応神天皇十六年は、日本書紀暦では385年、吉田説では、 349年(長暦普通暦)になる。

  3. 最新研究 目 次 1.文献・古代日本史 年代の現状      2014_11_27 追加 2.ホツマツタヱに記述される、ホツマ暦の現状 3.スス暦・アスス暦 解析結果の最前線 4.ホツマ暦論文  ①長暦(暦)(注)の原因が解明される  ②普通「スス暦・アスス暦」が、BC6世紀~AC3世紀を照らす  5.アスス暦の解読秘話 ①過去に苦心して解読した「アスス暦」は、長暦(暦)だった ②アスス暦、日本書紀暦での不知火の発生は、5月と記述さ    ているが、2→1倍化暦の換算暦では月再現(9月)、(11頁) 6.ホツマ文章の研究報告   (注)長暦(暦)の定義 ⇒ 長暦(暦)_ウィキペディアを参照  ご参考になれば、幸甚と存じます。                2013年10月16日                     ホツマツタヱ研究家 吉田六雄                        

  4. 1.文献・古代日本史 年代の現状   ホツマツタヱの古代の記述には、 ①「天地の開けし時に」 ②「天地人も 分ざるに 初生の一息」 ③「一息が 陰陽と分かれて」など、  宇宙的な発想の記述を多く目にする。また、年齢が百万歳や 数十万年の年齢の記述されている。このため、古代の人は、 「長生であった」と、思わせる記述が多くある。  また、日本古代史には、ホツマツタヱ以外に、日本最古の歴 史書と云われる、記・紀があり、紀元前660年を起源するが、 神武天皇以下、百歳以上の天皇が多く、その暦は日本長暦と 云う、他国と比較できない暦(紀年)のままである。その記・紀は 、実証主義の教育現場には登場しない歴史書である。

  5. 2.ホツマツタヱに記述される、ホツマ暦の現状 2.ホツマツタヱに記述される、ホツマ暦の現状  (1)ホツマ・古代の御世  ホツマツタヱの古代を大きく分類すると、 ①アメノミオヤ~始まる古代の御代  ②ウヒジニ~始まる「スス暦」の御世 ③タケヒトの「スメラギ」に天日嗣前~始まる「アスス暦」の御代 の三つの御世に分かれるようだ。 (2)ホツマ暦 (スス暦、アスス暦)  ホツマツタヱの暦を分類すると、 ①明確な暦の記述されてない古代(スス暦以前) ②ウビジニ・スビヂ~始まる古代太陽暦を導入したスス暦 ③タケヒトのスベラギ(天皇)になる前から始まる「太陰太陽暦  (含むウリフ月)」を採用したアスス暦

  6. 3.スス暦・アスス暦  解析結果の最前線   ホツマ暦のスス暦、アスス暦を解読し始めて、約20年になる。 その間、スス暦は太陽暦である。またアスス暦は、長暦(暦)の 太陰太陽暦であることを解析できていた。だが、アスス暦の長 暦(暦)の壁が障害(注)になっていた。そんな中に、2013年4 月過去の発表資料を整理中に、新たな史実を発見した。この発 見により長暦(暦)の障害を解消し、長暦(暦)を是正した「スス 暦・アスス暦」の年表を作成した。新ためて作成した年表と、考 古学上の出土物より、鉄の伝来、銅鐸、埴輪などの年代を対比 した結果、ほぼ1世紀以内の範囲で年代が一致していた。                 <詳細は、158~159頁をご参照> (注)障害とは、    スベラギ(天皇)の年齢が百歳以上が多すぎる。また、近    隣の諸国の年代と合わない。

  7.  今回、鉄の伝来、銅鐸、埴輪など僅かな資料を対比したが、 今回、鉄の伝来、銅鐸、埴輪など僅かな資料を対比したが、 このことからも文献・ホツマツタヱと考古学(日本史)の年代が、 学述上において、相互補完することができるとの「新たな発見」 がなされたと云える。詳細内容は、次頁より掲載。 (1)スス暦の最前線   紀元前270年頃また(仮)27鈴頃に、スス暦の「1日の数え   穂」が「16穂→8穂」に改暦されており、この紀元前270年   頃以降において、オオヤマスミ系、モノヌシ系の在位年数が、   長大化(二倍化)していた。 (2)アスス暦の最前線    スス暦の長大化の影響は、6代ワニヒコまで続いており、    スス暦時代にモノヌシに就任し、アスス暦の時代にモノヌシ    の在位年数が142年(192歳)になり、長大化がアスス暦    まで続いていたことが確認された。長暦(暦)の常態化。

  8. 4.ホツマ暦論文  論文の趣旨                赤字追加 2014_11_26付 ①長暦(暦)の原因が解明される ②普通暦「スス暦・アスス暦」が、BC6世紀~AC3世紀を照らす 目次  4.(1)ホツマ暦と日本史の対比図(概要)  4.(2)ホツマ暦の解読論文  4.(2). ①ホツマの記述年と考古学出土物の年代対比  4.(2). ②ホツマの記述月、計算月、自然現象発生月の対比  4.(2).③-1 ホツマ・スス暦の年表  4.(2).③-2 ホツマ・アスス暦の年表  4.(2).④-1 スス暦・アスス暦、長大化原因の発見  4.(2).④-2 スス暦・アスス暦、 「一日の数え穂」  4.(2).④-3 スス暦・アスス暦、在位年数の長大化  4.(2).④-4 スス暦・アスス暦、月名の一致率  4.(2).④-5 長大化の修了年代の特定

  9. 4.(1)ホツマ暦と日本史の対比図(概要)4.(1)ホツマ暦と日本史の対比図(概要)  日本史の古代は、余りにも古い時代である上に記録も多くは 残っていないと云われる。その中で、歴史的史実を多く記述する ホツマツタヱのホツマ暦が解明された。そのホツマの年代は、 紀元前6世紀~紀元3世紀になり、紀元前546年~紀元261 年までになる。日本史の範囲で説明すると、縄文・後期~弥生 ~古墳時代・前期に相当するようだ。

  10. 4.(2)ホツマ暦の解読論文  ①ホツマの記述年と考古学出土物の年代対比 結論  <詳細は157~162頁をご参照>  鉄、銅鐸、埴輪等ホツマの記述年と考古学年代が合うようだ。 【ホツマツタヱの記述】  〇印:一致、 △印:研究の余地あり。 【考古学の出土物】

  11. 4.(2)ホツマ暦の解読論文     2014_11_27 追加   ②ホツマの記述月、計算月、自然現象発生月の対比4.(2)ホツマ暦の解読論文     2014_11_27 追加   ②ホツマの記述月、計算月、自然現象発生月の対比 全ホツマツタヱの内 3ヶ所に自然現象の記述あり、その発生月 は、ホツマの記述月より計算月の方が ほぼ一致し 再現する。 計算月は、2倍化暦→1倍化暦に変更し 計算で求めた月を示す。                    ホツマ    計算    大阪府 (1)河内狭山は 水足らず   記述月    月    雨少い月     (大阪狭山市) 682年7月 <10月 ≒ 11月~3月   狭山は溜め池が多い                    ホツマ    計算   八代海 (2)知らぬ火の国と      記述月    月   不知火発生    (熊本県八代海) 806年5月1日 < 9月 〓 9月24日   景行天皇の巡幸記より                    ホツマ   計算    島原半島 (3)マエ山 アワ岬見て     記述月     月   良く見る季節    (福岡県八女市より) 7月4日~8月 < 10月〓  秋~冬朝 八女~有明海~島原半島の間は、約50~60kmあり。

  12. 4.(2).③-1 ホツマ・スス暦の年表 【スス暦】  紀元前6世紀~始まる「スス暦」の御世は、カミ代と云われる 名前が並ぶ。また今に伝わる風習が、この頃を起源にしている。 ①紀元前6世紀:雛祭りの原形とされる「ウビジニ・スビチ」の   フタカミ(神)の「アマキミ(天君)」の御世。 ②紀元前4世紀:国土の荒廃を立て直された「タカヒト」「ワカヒト」の御世になる。 ③紀元前3世紀:「シワヒコ」を伴ってホツマ国を豊かにされた「オシヒト」。葦原国を治められた「テルヒコ」。稲作を持って   関東平野の新治宮を治められた「キヨヒト」。「ウツキネ」の   御世と続く。 ④そして「アマキミ(天君)」の終焉は、紀元前2世紀の中期で   あった。

  13. 4.(2).③-2 ホツマ・アスス暦の年表4.(2).③-2 ホツマ・アスス暦の年表 【アスス暦】  この「アスス暦」の御世は、現在の天皇の御世につながる御 世であり、2月11日の「建国記念日」につながる御世である。 ①紀元前2世紀   奈良の橿原宮に都を開いた「タケヒト」の御世。 ②紀元前1世紀~紀元2世紀   現在では「欠史八代」と云われているニ代目「ヤスキネ」~   九代目「フトヒヒ」の御世になる。 ③紀元2世紀~紀元3世紀    (国際交流が頻繁になる) 国土の民が疾病に苦しんだ、またこの頃「カラクニ」より王子   が来た「ヰソニヱ」の御世。更に「ミマナ」との往来が盛んに   なった「ヰソサチ」の御世。それに、西の熊襲、東のホツマ国   を平定した「タリヒコ」の御世になる。この「アスス暦」の「スメ   ラギ」の平均在位年数は、約32.9年になるようだ。

  14. 是正「アスス暦」のスメラギの年表 アスス年代・御世         この御代は、BC2世紀~AD3世紀、弥生~古墳時代になる。 ①アスス暦21年(初年) : 紀元前2世紀(紀元前151年頃) ②タケヒト (神武)初年:紀元前2世紀(紀元前133年頃) ③ヤスキネ(綏靖)初年:紀元前1世紀(紀元前 95年頃) ④シギヒト (安寧)初年:紀元前1世紀(紀元前 75年頃) ⑤ヨシヒト (懿徳)初年:紀元前1世紀(紀元前 58年頃) ⑥ミルヒト (孝昭)初年:紀元前1世紀(紀元前 40年頃) ⑦オシヒト (孝安) 初年:紀元 1世紀(紀元  3年頃) ⑧ネコヒコ (孝霊) 初年:紀元 1世紀(紀元 54年頃) ⑨モトギネ (孝元) 初年:紀元 2世紀(紀元   92年頃) ⑩フトヒヒ (開化) 初年:紀元 2世紀(紀元 120年頃) ⑪ヰソニヱ(崇神) 初年:紀元 2世紀(紀元 151年頃) ⑫ヰソサチ(垂仁) 初年:紀元 2世紀(紀元 185年頃) ⑬タリヒコ (景行) 初年:紀元 3世紀(紀元   234年頃)

  15. 4.(2).④-1 スス暦・アスス暦、長大化原因の発見 【ホツマ暦の研究経緯(長大化原因の発見経緯)】 (1)スス暦           ①ホツマツタヱを手にした時は、現在の暦の概念からは外れ    ており、解読の方向性が見えなかった。  ②唯一の救いは、ホツマツタヱに、古代暦の記述「スス(鈴)」    「ヱダ(枝)」「ホ(穂)」「大きい暦数字」が記述されていた。  ③スス暦の最小単位は 「ホ(穂)」であるが、理数系のため、    「年」の概念を外し、 「ホ(穂)」を説明する文章をホツマツタ    ヱより捜した。  ④スス暦の初めに、ホツマ暦の基本となる「穂」と 「1日」の関   係を示すヲシテ文の1つ目を発見した。 <次頁(1)参照>  ⑤27鈴の直前に、「穂」と「1日」に大きく関係した2つ目の   ヲシテ文を発見した。             <次頁(2)参照>

  16. 4.(2).④-2  ホツマ暦  「一日の数え穂」 ホツマ暦の基本である「1日の数え穂」、2種類を発見  二つの「一日の数え穂」が、後に「スス暦」「アスス暦」の年代 に大きく影響していることが判明、特に(1) に対する(2) 「アヱ よりヤヱの中5日」は、長大化(長暦)を誘発していた。 (1)「天の原 16穂居ますも 1と日とぞ」  2011_4_16 発表 【解釈】    スス暦が始まった当初より、「1日は16穂」で数えていた    と判明。 (2)「アヱよりヤヱの 中5日」        2003_6_14 発表 【解釈】(仮)27鈴以降は、「1日は8穂」に改訂。このため、   上(1)に比較し、1日を2日に計算した年数になっていた。

  17. 4.(2). ④-3 スス暦・アスス暦、在位年数の長大化 長暦の原因:1日8穂の前後で在位年数が、長大化していた。 スス暦の年代で見ると、27鈴以降に、長大化の影響があった。  

  18. 4.(2). ③-4 スス暦・アスス暦、月名の一致率 長暦の原因:27鈴前後で、月名の一致率が違う  

  19. 4.(2).④-5 長大化の修了年代の特定 (3)長大化(長暦)を是正するため、長暦の修了年を調査する。 【解釈】 (仮)27鈴以降のスス暦、アスス暦は、長大化しているため、 スス暦、アスス暦からは、長大化の最終年が掴めない。そのた め、日本書紀に降り調べて見ると、17代仁徳天皇までは在位 年数が長大していた。次の18代履中、 19代反正、 20代允恭 天皇は、長大化が終了していた。このことより、長暦(暦)可否 の判断(私見)基準を、17代履中天皇以降の天皇からは、長 暦(暦)でないとした。そこで、日本書記の年表を見ると、履中天 皇の初年は西暦399年であった。このため、この西暦399年を 起点に、日本書紀暦の太陽暦(筆者計算)→アスス暦の太陽暦 →スス暦の太陽暦の順に、西暦年の遡り年を計算した。

  20. 5. アスス暦の解読秘話 【アスス暦】   過去に苦心して解読した「アスス暦」は、長暦だった 。その   原因は、「初めに干支ありき」の諺が、呪文となっていた。   そこで、長暦(暦)を不確かなデータとする品質管理の目に   改めて、確率などの統計分析により長暦の壁を脱した。 【ヱトを基準にしたアスス暦の解読暦法】 ①ホツマツタヱを読むと、タケヒト(神武) ~タリヒコ(景行)まで、   アスス暦で記述されている。またこのアスス暦の「年」「日」 は   、「ホツマ・ヱト」にて記述されている。そこでアスス暦を解読   すれば、日本史の古代が原点まで遡れると思い、解読式を 作成し計算して見たが、結果的には、アスス暦は、長暦(暦)   であった。アスス暦を一見すると、季節・年・月・日などの記述 を見ると、通常の暦と大差ないが、スベラギ(天皇)の年齢を 見と百歳以上が多くなっていた。

  21. ②また年代を他国の暦や考古学の出土物の年代と対比すると、②また年代を他国の暦や考古学の出土物の年代と対比すると、   アスス暦の年代が古く、対比不可であった。この原因も、長暦   (暦)の故であり、この現象は日本書紀暦と同じであった。   この長暦(暦)と判明したまま、約15年続いた。    詳細は、153~154頁に、ヱトで求めた「アスス暦」を掲示   した。ご参照方。 ③なお、上の【ヱトを基準にしたアスス暦の解読暦法】で求めた   アスス暦であり、「暦法は正しい」と思うが、計算された暦は、  長暦(暦)のため、今後は使用を謹むことになる。 ④アスス暦の年、日、ヱトは、原書「ホツマツタヱ」の編集当時   に既存の「暦」に準えて、「記述」の年、日、ヱトを割り振りさ せた暦と推測される。その根拠は、御世の後半の年が、28年 目、40年目、76年目と粗く振られる年、ヱトで埋めてあった。

  22. ホツマ暦の研究結果を公開しいてるHP <結論を先に、ホツマ暦法を読みたい人の頁> ホツマの神話・上代時代の古代暦を解く (総集編)  29頁   ブログアドレス  http://blogs.yahoo.co.jp/hotsuma_2014_1_22 <専門的に、ホツマ暦法を読みたい人の頁>  古代暦法「スス暦」、長暦(暦)「アスス暦」の解説ガイド (67頁)  ~紀元前後の御世に「ホツマの世界」が存在した~   HPアドレス http://www.geocities.jp/hotsuma_koyomi/hotsuma_koyomi_1.html <新超古代史年表(ホツマ暦→西暦)を見たい人の頁>  ほつま/ホツマツタヱ 新超古代史年表 全面大頁   HPアドレス http://www.geocities.jp/sakamiti_0926/chou-reki.html

  23. ホツマ文章の研究報告  本頁以降は、これまでの研究報告を掲載しております。 皆様の今後の「ホツマツタヱ」ご研究の資料となることをお祈り できれば、幸甚と存じます。 なお、一部に旧資料の年のままの資料もありますが、準じ更新 して行く予定です。ご了承をお願いします。                 2013年10月17日                          ホツマツタヱ研究家                            吉田六雄 

  24. 松本善之助より戴いた色紙の短歌 吾と同じ年より ホツマ志す 君のゆくえに  実り満つらん              平成六年三月十九日                  松本善之助

  25. 松本善之助  Wikipedia辞書 ホツマツタヱ 再発見 五十周年  2016年8月この年は松本善之助が、 神田の古本屋でホツマツタヱを、再発見 してから 五十周年に当たります。この 再発見を記念して、ホツマ研究者の協力 を得て松本善之助氏をWeb辞書に掲載 するはこびになりました。2012_5_20 編集者・吉田 

  26. スス暦が解読される_変遷履歴 スス暦   スス暦(太陽暦)が解読されて行くにつれて、1日の長さが、 ホツマ・ヱト穂で組み立てられていたことが、解明されるに 至った。         1~26鈴   27鈴~ 鈴の御世  ①最新  1日16穂  1日8穂  384年(普通暦) 2014_3_13  ②ひと昔 1日16穂   ←     500年 (長暦)  ③ふた昔 1日 8穂   ←    1000年    ④み  昔 1鈴20年    ←    1000年 (注)   この資料は、時に上記①~④で表示がある

  27. アスス暦が解読される_内容説明 アスス暦 (1)アスス暦は、ほぼ日本書紀の紀年と同じ長暦(暦)であった。   そして、ホツマ・ヱト穂で、日を表示していた。  ①年  21穂~843年 (アスス御世)  ②年 約285日、約385日  ③月  ム月~シハス   (1月~12月)  ④月  解読時の月 9、また13ヶ月で暦日計算が成り立つ  ④日  キアヱ~ネウト  60穂  ⑤日  朔、中張、望   この資料は、時に上記①~⑤で表示がある (2)長暦(暦)は、(仮)27鈴~スス暦より発生していた。 (3)普通暦アスス暦の年表を作成した。 2014_3_13

  28. ホツマツタヱ写本 安聰本と長弘本 安聰本 (親本:ホツマツタヱ最古の写本) 平成4年5月、滋賀県高島市安曇川町の日吉神社  で発見された「秀真政伝紀」(全24冊)を云う。  写本献上は天永四歳キシト天明日である。 長弘本 四国宇和島市で、江戸時代~大正時代にホツマツタ  ヱを伝えた故小笠原通当翁の子供の故長弘翁が  写本した「ホツマツタヱ」(全6冊)を云う。写本は明治  33年である。その後「復刻本ホツマツタヱ」製本

  29. 松本善之助 ホツマツタヱ再発見記(1)歌人・信綱ホツマツタヱを持て余す松本善之助 ホツマツタヱ再発見記(1)歌人・信綱ホツマツタヱを持て余す   信綱の短歌の知識からは、ヲシテ文字で綴られた 「ホツマツ タヱ」を一端手にするが、持て余して、手放していた。 皆さんもご存知の明治~昭和の歌人、佐佐木信綱は「ホツマツ タヱ」に接して、その時のことを竹柏園蔵書誌(厳松堂刊昭和四 十四年刊)に残していた。  「秀真傳なり。・・(中略)・・きつのなとほむしさるあやの如く、 晦渋(かいじゅう)察し難きも尠(すくな)からず。故らに古傅(こで ん)を枉曲(おふきょく)し難解の語を以て述べたるものにて、す べて長歌体にて叙し、概ね反歌三首を添へ、文字に片仮字もて 左傍に訓を附したり。」

  30.  この信綱が残した文について、 故松本善之介は『信綱の目には、奇代の真書ホツマツタヱも 「故らに古傅を枉曲し難解の語を以て述べたるもの」としか映ら なかったものとみえる。万葉集と古事記・日本書紀歌謡などか ら構築された在来の考えに対し百尺竿頭一歩を踏み出すこと がいかに難しかったか。この一文はそのことを如実に語ってい る。』と月刊ほつま(昭和56年3月号)で述べている。  信綱の「ホツマツタヱ考」は、松本先生も指摘しているが、「万 葉集や記紀の在来の考え」を基準にして、「ホツマツタヱ考」を 残したため、「古傅を枉曲し難解の語を以て」と表現する以外に、 言葉がなかったようだ。  松本先生が述べたように、百尺竿頭一歩「百尺 竿頭に一歩 を進め、絶後に再び蘇る」を踏み出しておれば、短歌の世界も、 もっと奥深いものに到達しただろうか。

  31. (2)信綱 より手放されたホツマツタヱの行方(2)信綱 より手放されたホツマツタヱの行方 信綱より手放されたホツマツタエは、その幾つかの手を経て、昭和41年8月神田の古本屋で、松本善之助により再発見された。そのホツマツタヱは、古事記や日本書紀より、更に古の昔に、編纂されたものであった。    参考   hp_http://woshite.mond.jp/labo/modules/pukiwiki/ 佐佐木信綱 の手元より 離れ、その 後 神田 で発見本→

  32. (3) ホツマツタヱ 近代研究の始まり 歴史的 ホツマツタヱの近代研究への進化  「現代用語の基礎知識」の初代編集長をしていた松本善之助 は、日頃より、「本当の日本とは何なのだろうか?」との疑問を 持っていた。長年通っていた東京・神田の古本屋に、昭和41年 (1966)8月の週末も通っていた。ふと手にした二冊の本の内 の一冊に、今まで見たことのない文字の本があった。高額では あったが、購入して自宅でじっくり見た所、その本は「小笠原長 武、奉呈本」であることがわかった。 今にして思えば、この本の「小笠原長武、奉呈本(三冊)」との 出会いが「ホツマツタヱの大衆化の始まり」であった。この日は、 その後、逸話となりホツマツタヱ研究者の間で、今でも、語り継 がれている。そして、この日を境に、ホツマ研究の歴史が急激 に動き始めることになった。                    ホツマ研究者 吉田 六雄

  33. (4) 「安岡正篤」先生とホツマツタヱ ☆あの漢学者の「安岡正篤」先生が、ホツマツタヱを習っていた。   その記録は、1966~9年のことになる。  「・・それから同家で、既に安岡正篤先生らのために開いていた例会に倣い、「ホツマ」を 勉強しはじめる。・・・」 出展:  松本善之助・月刊ほつま・193、194号(平成2年2月、3月) 【コメント】   このことを裏付けるように、平成20年9月20日赤坂例会の勉 強の場で、故・松本善之助先生と故・安岡正篤先生の関係が話 題になった。松本先生は、「ホツマツタヱに出会ってから3年間 は、安岡先生から物心両面の激励を受けていた。このことで ホツマツタヱ研究の基礎が築けたと先生より聞いてた」とのこと であった。 (先生の単行本「ホツマツタヘ」の14頁に、「3年間の 蟄居生活」との記載があります。)

  34. (5)ホツマツタヱ 例会、研究会の始まり 1966~69年 東京・六本木で支援者にホツマ報告会を開く 1972年    大阪・自然社にて研究会、約10年続く。          1978年5月 日本橋・浜町にて研究会、約4年続く。                                                                  1980年7月   埼玉県和光市にて研究会、約2年続く。                   1982年頃 京都にて研究会                              1982年1月 都内にて東京研究会、約2年転々と移動。                                    1984年 1月  六本木報告会より赤坂研究会が独立           東京研究会が合流する。約10年続く。  2000年1月  ホツマツタヱ講座をHPで公開始まる。                   2015年8月   ホツマツタヱ、再発見の50年目を迎える。  2016年8月  ホツマツタヱ、再発見より満50年となる。

  35. ホツマツタヱ  目次 ☆和仁估安聡本(やすとし本) ホツマツタヱの目録 「ヲシテをカナに直したもの(と漢訳文)」 ☆アのヒマキ(天の巻) コトノベのアヤ        (序) キツのナとホムシさるアヤ (1.東西の名と穂虫去る文) アメナナヨトコミキのアヤ (2.天七代、床御酒の文) ヒヒメミオうむトノのアヤ (3.一姫三男生む殿の文) ヒノカミのミズミナのアヤ (4.日の神の瑞御名の文) ワカのマクラコトハのアヤ (5.和歌の枕言葉の文) ヒノカミソフキサキのアヤ (6.日の神十二后の文) ノコシフミサガをたつアヤ (7.遺し文サガお絶つ文) タマがえしハタレうつアヤ (8.魂返しハタレ撃つ文) ヤクモウチコトつくるアヤ (9.ヤクモ撃ち琴つくる文)

  36. カシマたちツリタイのアヤ (10.鹿島断ちツリタイの文) ミクサゆつりみうけのアヤ (11.三種神器譲り、御受けの文) アキツヒメアマカツのアヤ (12.アキツ姫、天が児の文) ワカヒコイセススカのアヤ (13.ワカ彦、伊勢、鈴鹿の文) ヨツギのるノトコトのアヤ (14.世継ぎ告る祝詞の文) ミケヨロツなりそめのアヤ (15.御食、万、生成の文) はらみつつしむヲビのアヤ (16.胎み慎しむ帯の文)

  37. ☆ワのヒマキ(地の巻) カンカガミヤタのナのアヤ (17.神鏡八咫の名の文) ヲノコロとまじなふのアヤ (18.オノコロとまじなふの文) ノリノリヒトヌキマのアヤ (19.ノリノリヒトヌキマの文) スメミマゴトクサゑるアヤ (20.皇御孫十種神宝得る文) ニハリミヤノリさたむアヤ (21.宮造り法の制定) ヲキツヒコヒミツのハラヒ (22.オキツヒコ火水の祓) ミハさためツルキナのアヤ (23.御衣定め剱名の文) コヱクニハラミヤマのアヤ (24.コヱ国ハラミ山の文) ヒコミコトチをゑるのアヤ (25.ヒコ命鉤を得るの文) ウカヤアヲイカツラのアヤ (26.ウガヤ葵桂の文) ミオヤカミフナタマのアヤ (27.御祖神船魂の文) キミトミノコシノリのアヤ (28.君臣遺し法の文)

  38. ☆ヤのヒマキ(人の巻) タケヒトヤマトうちのアヤ (29.神武大和討ちの文) アマキミミヤコトリのアヤ (30.天君、都鳥の文) ナヲリカミミワカミのアヤ (31.ナオリ神ミワ神の文) フジとアワウミミズのアヤ (32.富士と淡海瑞の文) カミあがめヱヤミたすアヤ (33.神崇め疫病治す文) ミマキのミヨミマナのアヤ (34.ミマキの御世任那の文) ヒボコきたるスマイのアヤ (35.ヒボコ来る角力の文) ヤマトヒメカミしつむアヤ (36.ヤマト姫、神鎮む文) トリあわせタチバナのアヤ (37.鶏合せ、橘の文) ヒシロノヨクマソうつアヤ (38.ヒシロの世、クマソ撃つ文) ホツマうちツズウタのアヤ  (39.ホツマ撃ち、つず歌の文) アツタカミヨをいなむアヤ (40.アツタ神、世をいなむ文)

  39.  ホツマツタヱとは、 ・ホツマツタヱとは、古代の歴史書のことです。  この書は、神武天皇の父(フキアワセズ)に仕えていた大物主の クシヒコ・クシミカタマと崇神天皇の御世、三輪の臣のスエトシ・ オオタタネコが残した神代~景行天皇までの歴史書になります。 また奉呈文を書いた オオカシマは、伊勢神宮の神臣になります。 またホツマツタヱの意味には、4つの意味合いが有ります。 ○ホツマクニ等の国名や地名の意味(28例) ○真実、マコトとかを意味するもの (22例) ○この二つの中間的な意味合い   ( 2例) ○文献名ホツマツタヱ・フミの意味  ( 9例) (注)   ホツマ国・・現在の静岡~南関東~茨城に当たる地域。   シワカミのホツマ国

  40.  ホツマ・クニの国名や地名 ・ホツマ国より近い所で、浦安国があります。そしてこの当時の 国を北より表示しますと、  日隅国(青森)、日高見国(東北)、越国(新潟)、秀真国(関東)、 浦安国、コヱ国(静岡・愛知)、ネの国(福井・石川)、紀志伊国(紀 伊半島)、細矛・千足国(山陰・丹波・丹後)、中国(山陽道)、ソア サ国(四国)、月隅国(九州)があります。 ・また地名は、多賀、勿来、鹿島、酒折、熱田、伊勢、出雲、阿 波、宮崎、鹿児島があります。

  41. ホツマツタヱの世界、BC6世紀~AC3世紀ホツマツタヱの世界、BC6世紀~AC3世紀 ☆ホツマツタヱ       この「ホツマツタヱ」の構成は、1章~40章からなり、全文が ヲシデ文字で、 「五七調」により綴られた「詩」や「歴史書」と云え ます。  また歴史書としての真価は、このホツマに記載の「古代暦」が 示すように、この国の歴史が、紀元前約536年~景行天皇の 御世56年の紀元261年までに渡って、記載されていることです。  このホツマツタヱは、日本固有の文字「ヲシテ」で記載されて おり、純国産の古代史と云えます。 (古事記、日本書紀は、漢字交じりで渡来人が関与か)

  42.  ホツマツタヱの歴史性 「古代・スス暦」        紀元前約536年~紀元261年、このように日本の創世記の年 代が、掴めることは、このホツマツタヱに現在の暦と等しい、ホツ マ暦が実在していたためにできることです。 そしてその古代暦・ホツマ暦には、スス暦、アスス暦の二つが あり、そのスス暦は、独特な古代の暦になります。 独特(オリジナル)な暦の表現    道開きて    光重ぬる   年の数     百七十九万   二千四百    七十穂経るまで

  43. ホツマツタヱが教える古代の秘密 ☆記紀のワカヒト(神武)天皇も神話の時代の人と思っていまし たが、ホツマツタヱに接して見て、神話と呼ばれたできごとが、 古代の史実の「できごと」であった。 ①富士山の周辺に、天の原があった。ハラ(原)宮、酒折宮 ②紀元前約330年、イザナギ、イサナミに子供が生まれる。   ウヒルギ、ワカヒト(若仁)、後、アマテル神。 ③大御神が天の真名井に御幸されている頃、稲虫の大量   発生を若姫、ムカツ(向津)姫、他三十人の女性で歌う   「和歌の呪い」で西の海に追い払うできごと。  ④若姫がアチヒコ(阿智彦)(暦を作る)に、恋文の回り歌を  送る。

  44. 富士山の周辺に、天の原があった ワカヒト、のちのアマテル神は、富士山の周辺の「天の原」の 「ハラミサカオリ」宮で誕生されたと云う。  その地名は 「トシタミヤ→ハラノミヤ→ハラミサカオリノミヤ」と 宮名が変遷したことも記述されています。その「天の原」は、今 で云うところの「皇居」や「政府」などの「都」が在ったところになり ます。なお、論文には古代の政庁と訳しております。  「天の原」は、アマテル神の命を受けて、伊勢・伊雑宮に移転 しますが、その計画を実施したのが、ホツマツタヱの「暦(スス 暦)を作ったオモイカネ(思兼命)」であった。

  45. ハラの宮 所在地(新説) 【結論】  ハラミ山は富士山のことで、ホツマツタヱの記述の通りである。 そしてハラの場所は、「愛鷹山麓」にあたる。 【地形論】  結論を証明するため、東名高速道路下り由比PAに出かけて 下さい。ここより富士山、愛鷹山方向を視ると、富士山が頭にな り、「愛鷹山」がハラに視えて来る。 (詳細なハラミ山、愛鷹山の風景写真を次頁に掲載)

  46. 天の原(古代の政庁)が、存在した記録   この文章はアマテル神が、天の原で生まれたと云う記録です。 ミー100     ヲヲヒヤマサノ         大日山南の トシタミヤトシタ宮           ↓ ミー121  コレイマハラノ          これ今原の ミヤノナモ トシタトイイテ   宮の名も トシタと云いて  ↓ 28ー11      イミナワカヒト           諱、若仁     12 ウブミヤハ ハラミサカオリ  産宮は   原見、酒折  ↓ 40ー3 サカオリノ ミヤハムカシノ  酒折の   宮は昔の ハラノミヤ原の宮

  47. 東名高速道路 由比PAより視たハラ 東名高速道路 由比PAより視たハラ ハラミ山 (富士山)      愛鷹山系 (ハラ、サカオリ )   ↓                               ↓ 東名高速道路下り由比PA からの風景です。写真左手が高速道路、右は駿河湾、右奥が愛鷹山系です。2008年2月13日 http://mohsho.image.coocan.jp/satsutapass2.html

  48. 【言語論】  一音節では、「ハラ」と「ミ」は、別意味であり、「腹」を「視」える 場所が、ハラミの意味である。 (類似) 富士見 「ハラミ山」とは、「ハラ」が見える山と訳すると無理がない。 【地名論】  ハラの愛鷹山の南東山麓には、現在、ハラより地名が変更 された後の「坂下(サカシタ)」、読み方では、サカオリとも読める 地名がある。  またホツマツタヱ原文には、サカオリ宮の「東に桜植え 大内 宮」との記述により、桜の地名を捜すと、「坂下」の直ぐ西に、 「桜畑」の地名が存在している。近くに「桜畑上遺跡」がある。 残念ながら、遺跡の場所は、現在では、第二東名のインターチ エンジ内になるようです。(再確認情報:NEXCO 中日本)

  49. 【地名の変遷】  富士山は太古より噴火の歴史と云われている。だが、ホツマ ツタヱの記述には、「トシタ宮」「ハラ宮」「サカオリ宮」と地名は 変遷しているが、宮の位置が移転したとの記述が存在しない。 想定すると、富士山の噴火でも避難する必要のない場所に、 ハラ宮があったことが想像される。このことを証明するように、 裾野市の歴史年表を見ても、「原始(時代)3万年前頃、愛鷹・ 箱根山麓に人々が居住。」、1707年富士山噴火 (富士山の 一番新しい噴火。宝永火口はこのときの噴火火口。当時の風 向きが西風だったため、裾野市域の被害は小山・御殿場に比 べると軽かったらしい)。このことからも、「愛鷹山麓」は富士山 噴火でも比較的に安全な地であった。ワカヒトが生まれたハラ は、比較的に安全な地である愛鷹山麓であったと想定される。

  50. http://www.city.susono.shizuoka.jp/life/ed/nenpyou.php 裾野の歴史年表 原始から現代までの裾野市の歴史年表です。 原始 赤文字は、ホツマの記述より再現年代(吉田記) 3万年前頃  愛鷹・箱根山麓に人々が居住 1万5千年前頃 公文名・富沢・桃園・金沢に旧石器時代遺跡 7千年前頃   公文名・深良・金沢・千福・大畑に縄文遺跡 5千年前頃   千福・金沢に縄文遺跡 4千年前頃 茶畑・公文名・深良・金沢・葛山・桃園に縄文遺跡 3500年前頃 葛山に縄文遺跡 2750年前頃 富士山噴火 2580年前頃 富士山噴火 2430年前頃 ハラミの山の 良き草も 五百年前に 焼け失せし 2330年前頃 ワカヒト(アマテル神)が、生まれる 2300年前頃 富士山最後の活発期の噴火(本栖湖半分埋る) 2200年前頃 公文名に弥生遺跡

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