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7 ・ヤノマミと異文化理解

7 ・ヤノマミと異文化理解. 2010.06.02.  成蹊・文化人類学 Ⅰ. 前回: 異文化理解とはどういうことか?. 「自分たちの文化とは違う」という文化の差異に対して、どのようなスタンスで臨むのか? とりあえず「 自文化中心主義 」には注意が必要であるが …… 「ふーん、そうなんだ、ま、それもありじゃ ん ?」 …… それは実はそれ以上の理解をやめてしまっている 思考停止 では? 「わかりました、あなたのやりかたを 100 %受け入れ、実行します」 …… それは「 自文化否定主義 」みたいなもので、長くは続かないのでは?

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Presentation Transcript


  1. 7・ヤノマミと異文化理解 2010.06.02. 成蹊・文化人類学Ⅰ

  2. 7・ヤノマミと異文化理解 前回:異文化理解とはどういうことか? • 「自分たちの文化とは違う」という文化の差異に対して、どのようなスタンスで臨むのか? • とりあえず「自文化中心主義」には注意が必要であるが…… • 「ふーん、そうなんだ、ま、それもありじゃん?」……それは実はそれ以上の理解をやめてしまっている思考停止では? • 「わかりました、あなたのやりかたを100%受け入れ、実行します」……それは「自文化否定主義」みたいなもので、長くは続かないのでは? • 「よーし、食べてみたぞ、これでおれはお前のことがよくわかった!」……そんなに話は単純ではないだろう(じゃあ、ピザを食べたらイタリア人のことがわかるのか??) • 「わたしはわたし、あなたはあなた、お互いとやかく言われたくないでしょう? だから、黙ってて」……それを突き詰めると多様性過多になって共同体は崩壊するのでは?

  3. 7・ヤノマミと異文化理解 前回:異文化理解とはどういうことか?-中括 • 中国における猫食の背景 • まず、全員が食べるわけではもちろんない • 全ての中国国民に「ペット」という感覚が欠如しているわけでもない • 猫<虎(あるいは蛇<龍)という比喩的関係 • 同様の事例は、他にもないだろうか? • 韓国における犬食 • 日本におけるうなぎ食 • 猫食の背景を知っての「翻訳」と知らないでの「翻訳」は意味が違うし、当然「理解」にも差がでる • 異文化理解とは、そうした「文化の背景・理由・詳細について知る(知ろうとする)こと」である

  4. 7・ヤノマミと異文化理解 「文化の翻訳」という問題(1) • たとえば、日本人―鯨の関係と、中国人-ねこの関係を等値と見ること、はよく試みられる • それは「文化の翻訳」というふうに考えることができる • 「翻訳」は、知識と慣れが伴わなければ「誤訳」がつきもの • 実際、「中国人-ねこ」を「日本人-X」に翻訳する場合は、鯨ではなくうなぎやまむしが訳語として当てられるべき • では「文化の翻訳」における「知識と慣れ」は、どこからどうやって調達すればいいだろうか?

  5. 7・ヤノマミと異文化理解 「文化の翻訳」という問題(2) • 古池や 蛙飛び込む 水の音 • 言わずとしれた松尾芭蕉の句 • 主眼は「古池」でも「水の音」でもなく、「そのあとの静寂」であるとされ、「日本のわび・さび」精神に合致するものととらえられている • Old pond---frogs jumped in---sound of water • ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)による芭蕉の句の英訳 • 両者を、完全にイコールで結ぶことは無理だが、かといって、両者がまったく違う、ということでもない • 両者のより完全な「翻訳」をめざすには、何万の言葉を費やさなければいけないだろう →文化の問題も同じでは?

  6. 7・ヤノマミと異文化理解 日本の人工妊娠中絶(1)

  7. 7・ヤノマミと異文化理解 日本の人工妊娠中絶(2)

  8. 7・ヤノマミと異文化理解 日本の人工妊娠中絶(3) • ヤノマミビデオでは「年間20人前後生まれる赤ん坊のうち、半数以上が精霊として森に還される」とされていた • 日本の1950年代は、実はそれと大差ない • 1975年は「年寄りの恥かきっ子」、2005年は「若者の過ち」としての人工妊娠中絶割合が目立つ(件数としては主ではない) • 日本における人工妊娠中絶の変化 • 1948年以前:そもそも禁止(1940年国民優生法と優生思想) • 1948-1976年……28週未満は可(優生保護法による) • 1949年:経済的理由による中絶を認める • 1976-1990年……24週未満は可 • 1990年以降……22週未満は可 • 1996年:優生保護法を母体保護法に改正

  9. 7・ヤノマミと異文化理解 ヤノマミは理解しがたいのか? • 確かに、おぎゃあと生まれているのに葉っぱに包んで見殺しにし、白蟻に食べさせて、最後は巣ごと焼き払う、という表面だけを見ると「理解しがたい」 • それはなんだか、「自分たちの文化」からは遠くかけはなれたようなイメージである • しかし「ねこ=漢方に基づく精力剤」という知識を入れたのと同様、「人工妊娠中絶の問題」という知識を背景に考えてみると、どうだろうか? • 人工妊娠中絶が「殺人」にならないのはなぜか? • 22週未満の胎児が「ひとではない」のなら、母親が抱き上げていないまだ精霊のままの赤ん坊が「ひとではない」のと、なにがどう違うというのだろうか? • そもそも、どの時点から「ひと」になるのだろうか? それは文化によるのだろうか?

  10. 7・ヤノマミと異文化理解 自文化中心主義/文化相対主義 • 自文化中心主義とは、自分の文化の基準で周囲をはかり、自分と異なる点について、ヘンだ・おかしい・間違っている・劣っている・遅れている、などと判断する立場 • それだけ聞くと、ずいぶんよくないスタンスのようだが、ひとは誰でも成長過程で「自分の文化」を形づくっている以上、完全にこの見方を排除することは極めて難しい • 文化相対主義とは、相手の文化も自文化同様しっかりとした「体系」を持っており、そのひとびとの間で共有・学習され、継承・ブラッシュアップされてきたものであるから、互いに尊重されあうべきものだ、と考える立場 • それだけ聞くと、とてもすばらしいスタンスだが、これを実現するためには、i. 相手の文化を(コミュニケーションを重ねた上で)きちんと認める、ii. 自文化を相対化・客観視(3次元的に眺める)する、iii. 全体の中での位置を(自他ともに)把握することが必要であり、なかなか簡単に成し遂げられるものでもない

  11. 内容A 内容B A B 7・ヤノマミと異文化理解 「真の(異文化)理解」の不可能性(1) • 言語を媒介とするかぎりは、言語自体のもつ制約によって、100%信頼できるコミュニケーションは行ない得ない • ある語が指す内容について、話者Aと話者Bが想定する内容が一致しているかどうかを確認する手段はない

  12. 7・ヤノマミと異文化理解 「真の(異文化)理解」の不可能性(2) • 100%信頼できるコミュニケーションが成立しない以上、対話に基づいて得られる理解には、常に誤解がどこかには生じている • では、どうせ誤解があるなら、面倒な思いをして対話しなくてもいいのか? • だれかがそうしたスタンスをとることを止めることはできない(文化相対主義の限界) • だからといって、みんながみんな対話をやめてよいとも思えない……どうせ100点とれないから試験勉強はしない? 30点よりは50点がましだから、ちょっとでもがんばる? • 「理解できる」のではなく「理解しようとすることができる」だけだが、「理解しようとする」のとそれを放棄するのとの間には、大きな差がある

  13. 7・ヤノマミと異文化理解 なぜ異文化を理解しなければならないのか • そのひとつの理由は「理解の相互性・相対性」に基づいている • 理解(≒知ること)がコミュニケーションに基づくのだとすると、その回路を一方的に閉ざすことは適切ではない • もうひとつの理由は「知らなくてもいいが、知っていればよりよいことがあり得る」という点 • たとえば「方言」という文化を共有できるケースとできないケース、どちらがよりシンパシーを得られるだろうか? • 結局のところ、異文化理解は、他人への理解・他人とのコミュニケーションと似た次元にある

  14. 7・ヤノマミと異文化理解 異文化理解-まとめ(1) • 異文化理解とは「まあそれもありだろう」と認めることではない • 異文化理解とは「やってみること」でもない • 異文化理解とは、その行為や考え方の背景を理解することである • だから、ある意味、だれにでもできる(猫好きであっても猫食は「理解」できる) • 逆に、やろうと思わなければ、できない(簡単に流すことはできない) • 異文化理解は(基本的には)ことばやコミュニケーションを媒介として成り立つ • だから、100%完全に理解することはできない(言語の限界) • 自分のことば・自分の文化は、役立つとも言えるし、邪魔になるとも言える(基準点としての自文化 vs 自文化中心主義)

  15. 7・ヤノマミと異文化理解 異文化理解-まとめ(2) • 異文化理解とは、つまるところ、全然知らない「異文化」に対して働きかける不断のプロセスである • 全然知らない0の状態から、実現不可能な理想の100の状態をめざして、0よりは10、10よりは30……の理解を続けていこうとするひとつの〈プロセス〉である • 「理解しよう」という動的 dynamic な〈プロセス〉であって、「理解した」という静的 static な〈状態〉ではない • 異文化理解は、個人としての他人の理解と似通ったものとしてとらえて、ほぼさしつかえない • 他人を理解することは必要か? 他人を理解することは可能か? という問いに対して、個々人がどういうスタンスをとるのか、という問題と、本質は同じである

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