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ベトナム戦争史

ベトナム戦争史. 三科博. ベトナム戦争とベトナムと列強との交流史. 1802年 阮福映(1762~1820)(グエン=フオック=アイン・嘉隆(ジャロン)帝)、フランス人カトリック宣教師ピニョー(1741~1799)の援助で「越南」建国。(「越南=ベトナム」)   ピニョーはベトナム南部を支配し、西山(タイソン)朝に滅ぼされた阮氏の遺子 阮福 映と出会い(1777)、以後彼を積極的に支援し、フランス人傭兵を募って1802年の阮朝建国(1804年に越南を国号とする)に貢献した。. 越南国の性格. 首都はフエ

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  1. ベトナム戦争史 三科博

  2. ベトナム戦争とベトナムと列強との交流史 • 1802年 阮福映(1762~1820)(グエン=フオック=アイン・嘉隆(ジャロン)帝)、フランス人カトリック宣教師ピニョー(1741~1799)の援助で「越南」建国。(「越南=ベトナム」)   ピニョーはベトナム南部を支配し、西山(タイソン)朝に滅ぼされた阮氏の遺子阮福映と出会い(1777)、以後彼を積極的に支援し、フランス人傭兵を募って1802年の阮朝建国(1804年に越南を国号とする)に貢献した。

  3. 越南国の性格 • 首都はフエ • 内政、外交、諸改革も清朝に倣う(例:朝貢など)→ある意味で古い帝政をしていたといえる。このことは、列強に隙を与えるきっかけになった。 • 建国に多大に貢献したフランス人の重用、およびキリスト教に対する寛大さ。以上と同。

  4. 侵略開始 • 1857年に起きた宣教師殺害事件に対し、ボナパルティスムの典型であるナポレオン3世は、アロー戦争後の新たな対外戦争を決意。 • 1858年~1862年に仏越戦争を展開、結果サイゴン条約によりコーチシナ東部3省を獲得する。

  5. 越南国被侵略史 • 1873年~1885年、劉永福(国際的志士)、黒旗軍を編成してフランスに抵抗。 • 1883年、フエ条約。フランスによるベトナムの保護国化。 • 1884年~1885年、清仏戦争、1885年の天津条約により清の伝統的なベトナムに対する宗主権放棄。 • 1887年、フランス領インドネシア連邦成立。事実上、および書面上の植民地化完了。朝廷は残されるも形だけ。

  6. フランス領インドシナ連邦ベトナム地域の最期フランス領インドシナ連邦ベトナム地域の最期 •  越南国の上にフランス植民地総督が立つ形となっていたが、1940年よりフランス領インドシナ連邦に進駐(第三帝国の同盟国であったため進駐となる)した日本軍は1945年3月の日本軍によるフランス総督軍襲撃(1944年9月のフランスの親第三帝国政府であるヴィシー政府の機能不全と大東亜共栄圏、およびベトナム民衆の支持獲得のため)により、上部の支配をフランスから日本にすり替わらせた。 •  しかし、8月の大日本帝国敗戦と直後のホーチミンらの8月革命により上部支配が瓦解。同時にすでに形骸化していた越南国も皇帝バオ=ダイが事実上その地位および国を、ホー=チ=ミンとベトナム民主共和国に譲る。

  7. ベトナム民主共和国樹立 • 1945年の8月革命でベトナムにおける正統な政府を樹立したベトナム民主共和国(国家主席:ホー=チ=ミン・首都:ハノイ)に対して、第二次世界大戦後政情不安なフランス政府はベトナムにおける再植民地化を決定(というよりも、第二次世界大戦が民族自決の戦争では無かったため、再植民地化は大国にとって失われた海外植民地を取り戻すことに過ぎなかったと言える。)

  8. ポツダム会議とインドシナ • 1945年7月に開かれたポツダム会議でインドシナの処理は決まっていた。北緯16度線を境に北は中華民国軍、南はイギリス軍が進駐して約6万のインドシナ駐留日本軍を武装解除し、フランス軍に引き継ぐというものである。 • 9月6日、英印軍を率いたクレーシー将軍の部隊がサイゴンに入城し、9日には中国軍の慮漢将軍がハノイに入城した。

  9. 戦勝国の協議 • 進駐軍は日本軍の収容所に入れられていたフランス軍を解放し、9月21日には英海軍艦艇に乗った最初のフランス軍部隊がサイゴンに上陸した。 • フランス軍のルクレール将軍はまず南ベトナムの支配を固めた。そして1946年始めイギリス軍部隊は撤退する。同年2月28日、フランスは重慶の中国国民政府と協議し、北ベトナムの中国軍は3月末までに撤退し、フランスは在華治外法権を撤廃し、上海仏租界や広州湾租借地を返還するとの合意に達した。

  10. インドシナ戦争勃発 • 1946年3月6日、フランスはベトナム民主共和国を「フランス連合」の一員として認める合意に達し、この協定によりルクレール将軍指揮下のフランス軍部隊がハノイに入り、5月までにラオスにも兵力を配置した。フランス軍は全インドシナを再植民地化したのである。6月訪仏したホー=チ=ミンはフランス政府とも(フランス政府とフランス植民地当局は違う)3・6協定を確認したが、ベトナム駐留のフランス軍との関係は日増しに悪化する一方だった。 • 同年12月19日、ついにハノイのフランス軍は総攻撃を行いベトナム民主共和国軍と交戦、インドシナ戦争が勃発した。

  11. インドシナ戦争の流れ • 1946年12月、開戦 • 1949年6月、元越南国皇帝・元ベトナム民主共和国最高顧問のバオ=ダイを南ベトナム地域に1946年開戦以前よりフランスが打ち立てた傀儡政府に代わって、再び傀儡的なベトナム国(国家元首:バオ=ダイ・首都:サイゴン)を樹立させる。 • 同年10月、中華人民共和国建国。翌年1月、ソ連と中国は北ベトナムを正統政権と承認し、劣勢でありゲリラ戦を続けていた北ベトナムに武器援助を開始。アメリカも南ベトナムに援助を開始し、冷戦構造が半島で顕在化する中、同年6月に朝鮮戦争勃発。ひとまず世界の目は朝鮮戦争へと向く

  12. インドシナ戦争終戦 • 1954年5月、ディエンビエンフーの戦いでベトナム民主共和国軍(北ベトナム)のフランス勢力範囲(南ベトナムも含める)に対する絶対優勢確定。 • 同年7月、ジュネーブ協定調印   (内容):   ・インドシナ諸国(ベトナム、カンボジア、ラオス)の独立   停戦と停戦監視団の派遣   ・ベトナムは南北に分離し、1956年7月に自由選挙を行い統一を図る   ・北ベトナム軍の南ベトナムからの撤退とフランス軍の北ベトナム、カンボジア、ラオスからの撤退

  13. 南ベトナムの変化とアメリカの介入 • 1955年10月、フランスという後ろ盾を失ったベトナム国は、その象徴的存在のバオ=ダイを国民投票により国家元首より降ろす。代わりに、フランス支配を快く思わなかった元ベトナム国首相ゴ=ディン=ジエムが、ドミノ理論でインドシナ戦争に介入した経験のあるアメリカの援助で新たにベトナム共和国を樹立する。

  14. 一時的な平和 • ジュネーブ協定によって、南北の自由選挙による統一が模索された。しかしながら1958年4月、南ベトナムのゴ=ディン=ジエム大統領はその自由選挙は北ベトナム有利になると判断して最終拒否した。 • このような駆け引きの続いたおよそ5年の間、アメリカも、ベトナム民衆のフランスに対する嫌悪をよく知っていたため、直接介入せず、傍観の態度をとっていた。

  15. 武力統一への一歩 • 1960年12月、平和的な南北統一が絶望的になったため、北ベトナム政府は、南ベトナムに南ベトナム民族解放戦線を立ち上げた。  この戦線はあくまで南ベトナムにおける北ベトナム派の軍隊ということであり、朝鮮戦争の二の舞を防ぐために考えられたことと、北ベトナムの得意なゲリラ戦術を活用するための軍隊であった。  そのため、北ベトナム正規軍は、南ベトナムにはこの時まだ投入されていない。北ベトナムは正規軍投入によるアメリカの介入を考えたことと、中ソがアメリカとの全面戦争を望んでいなかったことにもよる。

  16. ゴ・ディン・ジエムの失脚 • アメリカも、南ベトナムを西側(資本主義)世界の牙城と考え重視する方向をとった。しかしながら、ゴ=ディン=ジエム大統領は、新米のケネディ大統領の民主化要求を再三拒絶し、国内の多数派を占める仏教徒を弾圧するなど、アメリカの援助に対し面従腹背の態度をとった。 • 1963年11月、クーデターによりゴ=ディン=ジエム大統領は処刑され、新たにズオン=バン=ミン大統領が就く。しかし、65年6月にグエン=バン=ティエウが大統領に就くまでに、実に14回ものクーデターが確認されている。

  17. “いわゆる”ベトナム戦争の勃発 • 1963年、激動の年にジョンソン大統領がケネディ暗殺をもって就任する。翌年5月、もはや完全な傀儡となった南ベトナムと共に韓国、タイ、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドが派兵を決めた。 • 1964年8月、トンキン湾事件(トンキン湾でアメリカが北ベトナムより攻撃を受けたとされている。)により、この報復として翌年2月より北ベトナムへの空爆を開始する。  そしてアメリカ議会もこの時をもって、戦争を大統領に白紙委任し、事実上の宣戦布告が行われた。

  18. 戦争拡大 • 1968年、中ソの支援と、南ベトナム解放民族戦線の援助も含め、最大正規ベトナム民主共和国軍(30万人)を投入。 • 同年、頼りにならない南ベトナム軍に対して最大正規アメリカ軍(54万人)投入する。

  19. アメリカの教訓 • 朝鮮戦争の教訓から、アメリカ軍は北緯17度線(分断線)を越えずに、南ベトナム解放民族戦線とその兵員補給能力を越える損害を与え、ハノイの北ベトナム政府側に統一そのものを諦めさせることにあった。 • そのために、大規模な北爆によりハノイ指導部に心理的影響と、南ベトナムへの大量派兵により、その効果を狙ったのである。

  20. “教訓”による犠牲 • 先の“教訓”通りにアメリカ軍は行動したが、その補給ルートの分断のためには「ホー=チ=ミン・ルート」と呼ばれる、南ベトナム、ラオス、カンボジアに跨る地帯を攻撃しなければならなかった。しかし、その地帯は険しい山々の中にあり、解放戦線側は壮烈なゲリラ戦により(このルートは戦争中200万人近くが往来した)、村民などに紛れて戦った。そのため、アメリカ軍には民間人と軍人の区別がつかなくなり、いよいよ有名な作戦が実施されるに至った。

  21. 枯葉剤散布と自由砲撃地域 • そうしたゲリラに対して、アメリカ軍は枯葉剤の散布を開始した。これにより、内陸部の熱帯雨林の14%、海岸部のマングローブ林の30%が破壊された。 • 南ベトナム領内の、解放戦線の解放区・支配地域は、“自由砲撃地域(Free Fire Zone)”とされアメリカ軍の砲爆撃により村そのものが焼失した。この頃の南ベトナムは兵士1人殺すのに、民間人4人の犠牲が必要という有様で、年に100万人近くが住処を失って比較的平穏な大都市へ難民として移動した。

  22. 容赦のない北爆 • 北爆によって、アメリカ軍が投下した爆弾は一平方キロあたり約6トンで、第二次世界大戦で日本本土に落とされた爆弾一平方キロあたり約0,43トンであるのでその10倍以上の爆弾が北ベトナムに降り注ぎ、街や村を焦土としていった。

  23. アメリカの内部 • 1965年、アメリカ国民の3分の2は戦争を支持していたものの、1966年に学生の懲役猶予が停止されると反戦デモが大学キャンパスで続出した。 • 1967年、キング牧師が貧困層に戦死者が多いとし良心的兵役拒否を呼びかける。そうした中アメリカ政府は、相次ぐ戦争増税に対処するため、かつての大日本帝国大本営の如く「戦況は好転している」との報道を続けていた。

  24. テト攻勢(1) • 1968年1月31日未明、テト(小正月)を祝う日に北の正規軍と解放戦線が、南の首都サイゴンや旧越南国の首都フエの制圧を目指し一斉攻撃を仕掛けた。 • 結果としては、北ベトナム側は当初こそ奇襲に成功したものの(サイゴンのアメリカ大使館の占拠、フエの一か月ほどの掌握など)、南ベトナム軍やアメリカ軍と真正面とぶつかる戦闘であったため、指揮官や古参の下士官に多大な損害出て、さらには地下組織も表に出て戦ったため、後に反撃にあい解放区を大幅に失うことになった。

  25. テト攻勢(2) • しかしながら、戦術は失敗してもその心理的戦略は成功した。アメリカの報道は、密林の奥深くの戦闘は取材することができず、アメリカ軍に有利な平地での戦闘の取材に限られていた。 そんな中に起きた平地での北ベトナム軍の壮絶な都市制圧のためのテト攻勢は、ブラウン管を通してアメリカ本土に中継された。ゲリラの頭を打ちぬく残虐なアメリカ指揮官の姿に、太平洋を挟んだ同じ人間のアメリカ国民もこの戦争の正統性に疑問を抱き始めたのである。

  26. 和平交渉の開始 • テト攻勢を境に、アメリカ国民の半数以上がベトナム戦争に批判的な態度をとった。そのため、ジョンソン政権は北爆の部分的停止を発表。さらに次期大統領選への出馬見送りへ追い込まれた。   そんな中1968年5月、パリにおいて北ベトナムとアメリカの和平交渉が始まった。

  27. ニクソンの登場 • 1969年1月、ニクソン政権誕生。 反戦、ドル危機に示される経済不調、中ソ対立の先鋭化によるデタント(東西雪解け時代)の開始など幾多の危機の中でニクソン政権が生まれる。その中で対ベトナム政策に大きな変化がアメリカの方でも始まった。

  28. ニクソンの外交手腕 • まず南ベトナムに戦闘力を強化させる代わりに、自軍の戦力を低下させた(1968年の南ベトナム軍82万人・アメリカ軍54万人→1972年南ベトナム軍110万人・アメリカ軍2万4千人に)。 • 外交では、後の周恩来・キッシンジャー会談に見られるように中国伝統の遠交近攻策を利用して中国に接近。さらにソ連とは、両国のため(経済不調・軍事競争などもってのほかの状況)にデタントをして北ベトナムの国際的立場を孤立化に向かわせた。

  29. 北ベトナムの孤軍奮闘 • 1969年9月、ベトナム民主共和国・国家主席・ホー=チ=ミン死去。  民衆に紛れ、ゲリラ戦術を多用し戦争を長期化させるも、その精神は人間性にあふれ、今もベトナム民衆の尊敬を集めている独立と自由を求めた愛国革命家の死は、北ベトナムの民衆に結束力と戦争の終結を予期させた。

  30. アメリカあきらめず • 1970年3月、カンボジアの容共的元首シアヌークは、ロン=ノルによるクーデターにより政権を奪われる(この背後にはアメリカがおり、北ベトナムへの重要な補給ルートであった「シアヌーク・ルート」と「ホー=チ=ミン・ルート」の断絶を図り攻撃した。しかし、撤退後即座に復旧され作戦は失敗した)。

  31. 北ベトナムついに北緯17度線を突破 • 1972年4月、北ベトナムの戦車や装甲車が公然と北緯17度線を突破。南ベトナムへ攻勢を仕掛けた。それに対し、アメリカは地上軍の撤退を進めていたため、全航空戦力をもって北ベトナムに対する北爆を再開。さらに、北ベトナムの海上補給ルートを機雷封鎖して対抗する。

  32. 煮詰まらない和平交渉と爆撃 • 1972年4月、アメリカのニクソン大統領が中華人民共和国を訪問。大いに和平交渉を後押しする。しかし、南ベトナム政府頭越しの和平交渉に、南ベトナム政府は強く反発。さらにアメリカも事実上の敗北となる協定を大統領選前に調印するのは得策ではないと考え、先延ばしにする修正を北ベトナム側に迫った。 • 1972年12月、修正に拒否した北ベトナムに対する報復にハノイ、ハイフォンといった主要都市に12万トンもの爆撃(クリスマス爆撃)を行うが、国際世論は猛反発し、アメリカ議会も大統領に中止を迫った。

  33. アメリカ合衆国敗北 • 1973年1月、パリ協定調印。アメリカ軍、3月までに撤退完了。戦争を放り投げる形で早々に半島から出る。  北ベトナム軍は協定により南ベトナムへの駐留を許される形となる。

  34. アメリカ一切介入できず • 1974年9月、ウォーターゲート事件でニクソン大統領辞任。後を継いだフォード大統領は、混迷を続ける内政の立て直しを図るため、ソ連に対して積極的な宥和政策を採る。こうしてアメリカ国民はアメリカ軍なきベトナムへの関心を失った。   その上にウォーターゲート事件やアポロ計画による膨大な出費、オイルショック後の景気停滞やベトナム戦争に対する膨大な戦費と不況の関係などの国内問題に国民の関心が移ったアメリカは、同年8月に議会が最後の南ベトナム政府への金融援助を決定したものの、その額は以前と比べ物にならないほど低く、もはやアメリカ政府が南ベトナム政府を完全に見限ったことは誰の目にも明らかになった。

  35. 最後の統一大作戦 • 1975年3月、北ベトナム軍(30万人)「ホー=チ=ミン作戦」始動。南ベトナム軍は北ベトナムが攻略に考えていた(およそ2年)を大幅に短縮させ同年4月30日、南ベトナム大統領官邸に戦車が突入し、南ベトナム、ズオン=バン=ミン大統領無条件降伏を宣言。戦争は終結した。 大量の反社会主義住民の難民とパニックの発生(空母に避難した住民が、戦争で使われたアメリカ空軍のヘリコプターを人力で海に落としてスペースを確保するほどだった

  36. 新生ベトナム社会主義共和国の誕生 • 1976年4月、南北統一選挙実施。 • 同年7月、ベトナム社会主義共和国建国。ベトナム統一。

  37. インドシナをめぐる対立の中で勝ち続けるベトナムインドシナをめぐる対立の中で勝ち続けるベトナム • 1978年12月、ベトナム軍、カンボジアのポル=ポト政権追放のため進攻。 • 1979年1月、カンボジアの首都プノンペン制圧。ヘン=サムリン政権を樹立する。 • 同年2月、中国人民解放軍がベトナムに侵攻。中越戦争勃発。しかし、ベトナム戦争の最強ベトナム軍の前にろくな訓練も受けていない文革直後の中国軍は敗北。

  38. 犠牲 • ベトナム民主共和国軍(北ベトナム軍)・南ベトナム解放民族戦線110万人死亡 • ベトナム共和国軍(南ベトナム軍)22万人死亡 • 民間人168万人死亡 • アメリカ軍5万8千人死亡 • 負傷者約500万人~1000万人 • 戦後、ベトナムによる他の戦争、および社会主義政策で100万人死亡

  39. その後 • 1975年12月、ラオス人民民主共和国成立。 • 1993年5月、カンボジア王国成立。 • 1995年4月、旧ベトナム共和国(南ベトナム)亡命人らにより自由ベトナム暫定政府が樹立される。(現元首は旧首相のグエン=カーン) • 1995年8月、ベトナム社会主義共和国とアメリカ合衆国国交正常化。ASEANに加盟。 • 2000年11月、クリントン大統領訪越。 • 2008年8月、北京オリンピック開催。ベトナムのグエン=ミン=チェット国家主席訪中。

  40. 反省 • 南ベトナム解放民族戦線(及び北ベトナム軍)がベトナム戦争中におこなった数々のテロリズムは批判の槍玉に上がることがある。なお、アメリカは枯れ葉剤などの環境破壊や人的被害に対して、謝罪するコメントは一切出していない。ベトナムも同様に、南ベトナム解放民族戦線(及び北ベトナム軍)がベトナム戦争中に自国民に対して行なった数々のテロリズムに関し、何ら謝罪するコメントを出していない。

  41. 改革 • ベトナム、カンボジア、ラオスは紆余曲折とさまざまな障害を乗り越え、国民がよりよく生活できるような政治制度を作りつつある。 有名なドイモイ(刷新)政策は大成功をおさめ反政府勢力もあるものの、政権は安定している。ラオスも、旧王族による政権転覆未遂事件が起こるも国民の支持は得られていない模様。カンボジアでも、新たにシハモニ国王が即位し、フン=セン首相が再選されるなど政権はおおむね安定している。

  42. 主要参考文献、サイト(1) • 第一学習社編集部.(1999).最新世界史図表.第一学習社 • 水谷光男.(2006).世界史のための人名辞典.山川出版社 • ベトナム.(10th,Aug,2008). http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0 • 世界情勢を読む会.(2005)面白いほどよくわかる 世界の戦争史.東京:日本文芸社

  43. 主要参考文献、サイト(2) • カンボジア(12th,Aug,2008) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%82%B8%E3%82%A2 • ラオス(12th,Aug,2008) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%AA%E3%82%B9

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